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行商のおばあちゃんに学ぶビジネスの基本2009/05/18 00:00

千葉から届く「昭和」(日経マガジン)


日経新聞に挟み込まれていた「日経マガジン」で見つけたちょっといいお話。
電車や街中でたまにみかける行商のおばあちゃんのことを取り上げています。


おばあちゃんの素朴な笑顔が人をひきつける。
人が集えば明日につながる。
日々の積み重ねがいつしか信頼から安心へ。
トレーサビリティーなどという横文字なんてどうでもいい。
ビジネスの基本がきっとここにある。

「家にいるよりも東京に出てきて、お客さんと話をするのが楽しいの」と軽やかに話すおばあちゃん。

そうか。仕事は楽しいものだったんだ。


月曜日恒例の朝礼や会議の場にも打ってつけのお話ではないでしょうか。


<記事引用>

千葉から届く「昭和」
2009/05/17日経マガジン

 雪の日も炎暑の日も、行商のおばあちゃんは専用電車でやってくる。小さな体に大きな荷物。中に千葉県産の野菜を詰め込んで。

 東武東上線の上板橋駅南口(東京・板橋)。「再開発反対」ののぼりが立つ昔風情の商店街で小さな人だかりを見かけたのは、寒さの厳しい二月だった。

 「おばちゃん、このネギおいしい?」「やわっこくて、おいしいよぉ」。のぞき込むと、野菜や赤飯、もちなどを小柄なおばあちゃんが道ばたで売っている。

 地元農家から仕入れ

 おばあちゃんは千葉県酒々井町に住む嶋田そみさん、八十五歳。地元で採れた野菜や加工食品を平日は毎日、上板橋まで電車で運んで販売している。昭和の時代によく見かけた行商人の一人だ。

 嶋田さんが行商を始めたのは半世紀以上も昔。一九五七―五八年の「なべ底不況」で家業の製材業が揺らぎ、自宅近くで採れるヤマユリを東京に売りに来たのがきっかけだった。知人がいた上板橋周辺を売り歩いたが、そのうち「野菜を持ってきて」と頼まれるようになった。

 大きなカゴを背負い、得意先を一軒一軒回って野菜を売った。当時まだ二、三歳だった末っ子を連れ、行商中は得意先が子どもを見てくれた。「私の帰りを心配そうに待っている姿がかわいくてね。家で待つ上の三人の子供も東京のおみやげを楽しみにしていた」

 十年ほどすると、得意先から商店街の店先を使っていいと言われた。以来、今の露天で売るスタイルになった。

 恥ずかしがる嶋田さんに無理をお願いし、四月のある日、行商に同行させてもらった。

 午前五時起床。五時半には業者が銚子のイワシやサンマの酢漬けなどを自宅に納めに来た。一緒に暮らす長男のクルマで京成佐倉駅へ。「家族のサポートがないと、この仕事は続けられないよ」と京成行商組合会長の山崎米さん(76)はいう。

 七時。通勤客が行き交う駅前で佐倉市内の農家からトマトやネギ、アスパラガスなどの野菜を仕入れた。すべて現金決済。駅ホームでも別の農家からミツバや手作りのモチを仕入れたり、行商の仲間と野菜を交換したりして品ぞろえを増やし、荷造りをする。

 昔はカゴを背負っていたが、七、八年前から車輪付きのキャリー(荷台)を使うようになった。段ボール九箱を二台のキャリーに積み上げる。「昔に比べて荷物を多く運べるよ」というものの、嶋田さんの身長は一四〇センチ足らず。重い荷物を転がすのも決して楽ではない。

 最後の行商専用車両

 八時過ぎ、いつもの上野行き普通電車に乗り込んだ。最後尾の一両は「行商専用車両」。一般客が間違って乗ろうとすると、車掌がホームで隣の車両に移るように案内する。

 千葉と東京を結ぶ行商専用車はかつて京成電鉄だけでなく、国鉄(現JR)の成田線などでも運行していた。行商の人数が最盛期だった昭和三十  四十年代、京成は専用列車(三両編成)を一日三往復運転。農水産物の供給地と大消費地を結ぶ動脈の役割を担った。

 しかし流通網の発達と行商人の減少にあわせて専用車は段階的に縮小される。国鉄は民営化前に廃止。京成も九八年から現在の一両を残すだけとなった。

 この日の専用車には京成佐倉駅や京成臼井駅などから十八人の行商人が乗り込んだ。曜日や季節によってばらつきがあり、少ないときは数人にとどまる。大半は七十代か八十代のおばあちゃん。兼業農家もいれば、嶋田さんのように行商専門の人もいる。

 専用車の旅はおよそ一時間半。車内でも商品の仕入れや交換をする。江戸川を渡って都内に入ると、彼女たちは青砥や町屋などそれぞれの持ち場の駅で降りていく。行商といっても現在は駅近くで露店をする人が多数派。だが、「背中が曲がったんで荷物が肩に食い込まなくなったよ」と笑う八十七歳の女性は今でもカゴを背負って売り歩いている。

 嶋田さんは日暮里で専用車を降りた。ここでJR山手線に乗り換えて池袋へ。さらに東上線に乗り継ぐ。「今はエレベーターができて乗り換えが楽だよ」。日暮里からは荷物運びを手伝う男性が一人付く。上板橋に着いたのは十時半すぎ。自宅を出発して四時間以上がたっていた。

 駅南口の商店街に入ると、ほど近い小さなビルの軒先が嶋田さんの定位置だ。荷を解き始めると、すぐに常連客が十人近く集まってきた。

 「今日はタケノコある?」「赤飯を三つちょうだい」「おばちゃん、イワシの酢漬け持ってきてくれた?」。商品を並べる前から、お目当ての品を求める声が続く。

 三十種類あまりある商品に値札はない。客は「おばちゃん、これいくら?」と必ず尋ねる。嶋田さんは「トマトは六百円。出始めたばかりだから。甘くておいしいよ」と一言添える。五十年来の常連客という大野浜吉さん(85)は「(嶋田さんは)素朴で人柄がいいんだ。話ができるのが楽しい」と言う。

 フルーツトマトを三袋購入した中山貞花さん(61)は「すぐに売り切れるから、いつも朝に来るの。スーパーより値段は高いけど、新鮮でおいしいから」と楽しそう。大手スーパーが自宅に近いという大森信子さん(71)もホウレンソウやワケネギ、赤飯などを購入。「新鮮だし、おばちゃんから元気をもらえるのがいいのよ」とほほ笑む。

 行商に今どきのトレーサビリティー(生産履歴の管理)といった高度なシステムはない。しかしスーパーの売り場に張り出された生産者の顔写真を見るよりも、嶋田さんから直接購入するほうが安心できるのだろう。価格はスーパーなどに比べて高いのは間違いないが、子供連れの若い女性も少なくない。

 嶋田さんが店の後片づけをするのは午後五時ごろ。帰宅は八時近くになる。雨の日も風の日も休まない行商は厳しい仕事だ。三年前にはひざを痛めて一年間休んだが、手術とリハビリ後に復帰した。

 「家にいるよりも東京に出てきて、お客さんと話をするのが楽しいの」と嶋田さんは軽やかに言う。後継者はいない。そのことを嘆いて感傷にひたるより、「昭和の東京」がまだ残っていることに感謝すべきなのだろう。[松永高幸]

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