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今西錦司の棲み分け理論を語る 鶴見和子&長谷川三千子2009/08/16 01:00

今西錦司


今西の棲み分け理論に言及したのにまったく無反応。
大丈夫かよ、日本人。

これはいかんということで鶴見和子さん(2006年没)と長谷川三千子さんに登場していただきます。


<関連記事>

鶯の死――社会学者鶴見和子氏(文化)
2003/04/20日本経済新聞朝刊

 声はきけど姿見ざりし鶯は眼(まなこ)を閉じて我が前にあり

 パンジーの花陰にして鶯は眼を閉ざし天を仰げり

 小さきものの生命の終りひそやかに崇高(けだか)さたたえ人知れずあり

 去年の七月のある日、わたしは杖をついて介護つきで老人施設の玄関を出たとき、玄関の前のパンジーの植えこみの土の上に、鶯がしずかに仰向けになっているのを見つけた。その胸の羽毛は金色にかがやいて、美しかった。わたしは立ちどまって、じっと見つめて、そして考えた。

▽ ▽ ▽

 宇治の小高い山の上にあるこの施設の七階に、脳出血の後遺症で左片麻痺の重度身体障害者となったわたしは今、暮している。

 山の上の森では、去年三月二日に鶯の初音をきいた、と日記に記している。

 幼鶯はさいしょは、ホーホーホー、ケキョ、ケキョ、ケキョ、とまるで赤ん坊の片言のように、たどたどしく鳴いているのだが、日を重ねるにつれて、だんだんホーホケキョと、本格的な鳴き声になる。そして、もっと日が経つと、こんどは、自前の節まわしで、美しい声で歌うようになる。稽古をつみ重ねて、やがておのがじしに作曲した歌をうたうようになる道すじを、わたしは毎日愉しんでいた。そして、声だけではなく、その姿を一目見たいものだと念じていた。ところがその念願が叶ったのは、その鶯が天上界にかえってしまったあとだったのである。

 柳田國男は、人間にとって、最高のハレは死であるといった。わたしは今、最後の刻(とき)がいつきてもおかしくない状態にあって、どのようにその刻をよく迎えることができるかを考えつづけている。そのためには時々刻々を精一杯よく生きるほかはないと思っている。

 鶯はまことによいお手本をわたしに啓示してくれた。鶯はその仲間やわたしたち人間を殺したり、傷つけたりしたことはないだろう。鶯は、力の限り歌をうたって、人間をたのしませてくれた。そして宇宙に還ってゆくときは、盛大な葬式をして、人をわずらわせることなどせず、ひそやかに大自然の中に還ってゆく。その姿の崇高さに、わたしは感動した。そして自分自身をふりかえった。わたしは人を殺したことはないが、傷つけたことは、ある。自分で気がつかないで人を傷つけたこともしばしばあったに違いない。傷つけないまでも迷惑をかけたり、世話になりっぱなしで報いることがなかったことはたくさんある。現在重度身体障害者として生きていること自体が、人の世話になり心配をかけっぱなしにしているのだ。それならばそれなりに精一杯の努力をして、想いのたけを述べつくして、ああよく生きた、と思って死にたい。

▽ ▽ ▽

 人を殺し、地球を壊す最大の罪はいくさである。ところが、わたしはデモにゆくこともできないし、いくさをとめるための行動はなにひとつできない。ただできることは、鶯のように歌によって志をうたうことだけである。

 そして死ぬときに、人に迷惑をかけないように、葬式などせずに、ひそやかに大自然の中に塵泥(ちりひじ)となってかえりたい。

 今西錦司は、生類は一つのものからさまざまな種の生物に進化してきた、もとは一つのものなのだから、人間は、その他のあらゆる生物から学ぶことができる、といった。わたしたち人間は、花からも、木からも、鳥からも、虫からでさえも学ぶことができる。今西は草かげろうから棲み分けの理論を学び、南方熊楠は粘菌から、「南方まんだら」の論理を思いついた。棲み分けの理論は、同種の個体数が特定の地域で養いきれないほど増えた場合は、他の地域に棲み分けることによって、あらそいを防ぐ知恵である。まんだらの論理は、異るものが異るままに、共に生きる論理である。現在地球を支配しているのは、単一の価値しかみとめず、世界を「敵」と「味方」に分けて、自分の気に入らないものは暴力によって排除するという理論である。これに対して、今西や南方が、草かげろうや、粘菌の生態から学んだ論理は、戦争を正当化する論理を超える可能性を示している。

▽ ▽ ▽

 9・11のテロの後、アフガン戦争が始ったとき、わたしはつぎのような歌を詠んだ。

 暴力に暴力をもて報いるほか知恵なきものか われら人類

 しかし、人類は、暴力に対して暴力をもって報いるのではない知恵を、他のさまざまな生きものから学ぶことができるのではないか。

 今年はまだ一度も鶯の鳴く音(ね)をきいていないのに、すでに燕の巣づくりが始っている。鶯の季節はとっくに過ぎて、燕の季節に入っている。地球こわしと人殺しのすさまじさにおどろいて、鶯はもう帰ってきてくれないのだろうか。鶯の声をきくためにも地上に平和がもどってきてほしいと願わずにはいられない。

 想いのたけ歌いつくして我死なむ鶯の終りしずかなるごと

 つるみ・かずこ 社会学者。上智大名誉教授。1918年東京生まれ。津田英学塾卒。95年に脳卒中で倒れて後、歌集「回生」を出版。著作集に「鶴見和子曼荼羅」(9巻)。


【正論】埼玉大学教授・長谷川三千子 ホントは怖い「多文化共生」
2009/01/12産経新聞東京朝刊

 ≪意味不明な内閣府の提言≫

 ちかごろ「共生」という言葉をよく目にします。内閣府では、平成16年に「共生社会政策担当」という部署ができて「共生社会」の実現を推進中ですし、総務省では平成18年に「多文化共生推進プログラム」の提言がなされて、目下、各地方自治体に多文化共生推進の大号令が下っている-どうやら「共生」はこれから流行(はや)りのスローガンになりそうな勢いです。

 しかしそれにしては、この「共生」という言葉、いまひとつ意味がはっきりとしません。ただ単に「共に生きる」というだけの意味だとすると、われわれ人間は大昔から集団を作って共に生きる生物として暮らしてきたのですから、いまさら共生社会の実現を叫ぶというのも妙な話です。たしかに戦後の日本ではやたらと「個人」の尊重ばかりが強調されてきて、日本文化の特色をなしてきた人と人との間柄の尊重ということが崩れてしまった。これをなんとか建て直そう、というのなら話は分かります。しかし内閣府のホームページを見ると、そういうことでもないらしい。「国民一人ひとりが豊かな人間性を育み」「年齢や障害の有無等にかかわりなく安全に安心して暮らせる」のが共生社会なのだという。いささか意味不明です。

 ≪日本文化は単なる一文化?≫

 これに対して、総務省の「多文化共生推進プログラム」の方は、きわめて狙いが明確です。要するにこれは、近年の外国人定住者の増加という現象にともなって出てきた話だというのです。このプログラム提言の立役者、山脇啓造先生は、多文化共生の発想は、外国人をいかにもてなすかという従来の「国際交流」とは違うのだと言って、こう説明しています-「今求められているのは、外国人を住民と認める視点であり」「同じ地域の構成員として社会参加を促す仕組みづくりである」。

 なるほど、これまで日本人は外国人のすることはみな「お客様」のすることとして大目に見てきたけれど、「住民」だとなればキッチリ地域のルールを守ってもらいましょう。日本語もしっかり覚えてもらって、「ニホンゴワカリマセーン」の逃げ得を許さない、ということですね、と思うとさにあらず。今後外国人の定住化がすすめば「『日本人』と『外国人』という二分法的な枠組み」それ自体を見直す必要が出てくるだろうという。その上で、「国籍や民族などの異なる人々が」「互いの文化的違いを認めあい、対等な関係を築こうとしながら、共に生きていくこと」が多文化共生だと山脇先生はおっしゃるのです。

 つまり、これから外国人定住者がふえつづければ、やがて日本文化は日本列島に存在する多くの文化の一つにすぎなくなる。そしてそれでよい、というのが「多文化共生」の考えだということになります。なんともどうも、怖ろしい話です。

 ≪「棲み分け」の回復こそ≫

 どうしてこんな話がまかり通ってしまったのか。おそらくその鍵は「共生」という言葉にあります。生物学では、異種の生物同士が同一の場所で互いに利益を与えたり害を与えたりしながら生きてゆくことを総称して「共生」と言うのですが、「共生」と聞くとわれわれはすぐ、アリとアリマキのような共利共生を思いうかべてしまう。だから「共生」イコールよいこと、というイメージが出来上がってしまうのです。

 しかし、実際の生物世界の共生は、互いに害を与え合うことすらある苛酷(かこく)な現実そのものです。そして、それにもかかわらず、なんとか多種多様の生物たちがこの地球上を生き延びてこられたのは、そこに或(あ)る平和共存のメカニズムが働いているからであって、それが「棲(す)み分け」なのです。

 これは、かつて今西錦司さんが、同じ一つの川の中でも、流れの速いところ遅いところ、住む場所によってカゲロウの幼虫が違う体形をしていることから思い至った理論です。つまり生物たちはそれぞれ違った場所に適応し、棲み分けて、無用の争いや競争をさけているということなのです。実は人間たちも(カゲロウのように体形自体を変えることはできなくとも)多種多様な文化によって地球上のさまざまの地に適応し、棲み分けてきました。

 それぞれの土地に合った文化をはぐくみ、そこに根づいて暮らす-これが人間なりの棲み分けシステムなのです。ところがいま、この平和共存のシステムは世界中で破壊されつつあります。日本に外国人定住者が増加しつつあるのも、そのあらわれの一つに他なりません。この事態の恐ろしさを見ようともせず、喜々として多文化共生を唱えるのは、偽善と言うほかないでしょう。(はせがわ みちこ)


<画像引用>

「今西錦司の世界」
http://www.museum.kyoto-u.ac.jp/japanese/event/exhibition011208.html

日本人はどこから来たのか2009/08/16 13:52

「更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変遷に関する総合的研究」より


<注目サイト>

更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変遷に関する総合的研究
http://research.kahaku.go.jp/department/anth/s-hp/index.html

研究班の構成
http://research.kahaku.go.jp/department/anth/s-hp/s1.html


<画像説明引用>

画像上:日本人形成過程のシナリオ
http://research.kahaku.go.jp/department/anth/s-hp/s14.html

まず、アフリカで現代人(ホモ・サピエンス)にまで進化した集団の一部が、約6~3万年前、東南アジアや東アジアへやって来て、その地の後期更新世人類となった(①②)。

次いで、更新世の終わり頃、約1万年前までに、東アジアや東南アジアの後期更新世人類が日本列島に到達し、その子孫が日本列島全体に広がって縄文時代人となった(③④)。

同じく更新世の終わり頃、北方からも日本列島へ移住があり、それが縄文時代人の形質に地理的勾配を生じさせたかもしれない(⑤)。

他方、後期更新世のいつの頃か、もとはと言えば縄文時代人などとルーツは同じだがシベリアや北アジアで寒冷地適応した集団が東進南下し、少なくとも6000年前までには中国北東部、朝鮮、中国の黄河流域・江南地域などに分布して、その地域の新石器時代人となった(⑥)。

そして、縄文時代の終わり頃、中国北東部から江南地域にかけて住んでいた人びとの一部が朝鮮半島経由で西日本に渡来し、先住の縄文時代人と一部混血しながら、広く日本列島に拡散した(⑦⑧)。

これが弥生時代以降の本土日本人の祖先である。この渡来民は沖縄の人びとにも遺伝的影響を与えたが、アイヌの人びとにはあまり影響しなかった。アイヌは縄文時代人が少しずつ変化して生じた人びとである。


画像下:弥生時代の枠組み変化による日本人起源仮説への影響の検討
http://research.kahaku.go.jp/department/anth/s-hp/s6.html

最近、弥生時代の開始期が従来考えられていたよりも500年も遡るかもしれない、という新しい年代測定結果が報告された。もし、そうであれば、当時の北部九州人の形態が縄文人的なものから渡来系弥生人的なものへと変化した事実を、これまでのように渡来民の人口増加率を高く見積もらなくても無理なく説明できるのではないか、と考えられる。

 そこで、この仮説を計算機シミュレーション的に検討した結果、やはりその可能性は十分にある、つまり、より自然な低い人口増加率でも十分に集団の形態変化が起こりえた、ということを明らかにした (中橋, 2005, 2006)。

日本における戦争の起源を探る 土佐・居徳遺跡と鳥取・青谷上寺地遺跡2009/08/16 15:10

居徳遺跡群


<関連記事引用>

▼「居徳遺跡」で講演 松井章氏(奈良文化財研究所主任研究官)  
弥生文化を先取りか  人骨に異常な傷 魂戻らぬよう損壊?
2002/04/23高知新聞朝刊

 土佐市の居徳遺跡群から出土した獣骨を「傷あとのある人骨」と鑑定した奈良県・奈良文化財研究所主任研究官の松井章氏がこのほど、南国市の県立歴史民俗資料館で「居徳人骨に見られる殺傷痕と損傷痕」と題して講演した。平和な時代とされた縄文時代に戦争の可能性を指摘した同氏の講演要旨を紹介する。

  ■骨の穴に興奮

 居徳遺跡から運ばれてきたコンテナの骨を見て人骨があるのはすぐに分かった。成人の大腿(たい)骨に穴を見つけて興奮した。

 この穴の断面はまんじゅう形。電子顕微鏡で見ると、穴の周りに骨の一部が内側にめくれ込んでいる。こんな断面形を持ち、貫通力のある鏃(やじり)は、シカの足の甲から作った骨鏃(こつぞく)しかあり得ない。さらに穴の裏側の骨が周辺ごと吹っ飛んでいた状況も矢による貫通痕だと断定した理由だった。

 一方、貫通痕の反対側、股(また)に近い方には直線的な切れあとがある。九州大学の中橋孝博教授は、「輪切りにするように骨の裏側まで通っている」と鑑定された。こうした傷は石器では不可能だ。青銅器で可能かどうかはまだ分からない。

  ■強い憎悪感じる

 しかし、居徳遺跡の時代(二千七百―二千八百年前)には突き刺す道具としての剣はあっても、切り付けるための刀は存在しないようだ。中国でも鉄の作り始めの時期。人骨の年代測定を準備しているが、この年代のものだと証明されれば、さらに大きな問題になってくる。

 一センチ幅の三日月形の傷あとがたくさん見られる人骨があるが、これはノミのような刃物で突き刺した傷だろう。電子顕微鏡で見ると真ん中が浅く、両側は深い。浅い部分は刃こぼれと考えられる。同様の傷がイノシシの骨にも付いており、刃物を使い回したことが分かる。非常に重宝していたのだろう。

 ただ、戦闘での死者や普通に死んだ人を捨てたとしても、ばらばらにした上、刃物で突き刺すようなことはしない。中には連続して八カ所も傷が付いている骨もある。死者に対する加害者の強い憎しみを感じる。

 現代で言えば、民族紛争のような集団間の非常に強い憎悪。さらに想像を膨らませれば、死んだ人間に対する畏怖(いふ)や恐れから、魂が戻らないように死体を徹底的に損壊したのではないかと思う。

  ■「異人」との戦いか

 居徳遺跡は漆の製品や東北地方の土器が出てきたり、非常に特殊な遺跡だ。

 たとえば、シカの角をくりぬいて工具の柄にした骨角器も出ている。これは朝鮮半島で多く出ているが、日本では弥生時代に伝わり、縄文時代にはなかったとされる。

 しかも、朝鮮半島の骨角器は石器ではなく、ノミやナイフがはまっていた。鳥取県の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡でも同様の柄が出土し、ノミのような鉄器がはまっていたとされる。居徳の骨角器もそうだったのではないかと想像する。

 出土した獣骨の中に犬の骨もある。ほかの獣骨の状況も考えると、食べていたのだろう。弥生時代の遺跡には犬を食べた痕跡があるものもあり、その点からも居徳遺跡が縄文文化の伝統を受け継ぐものではなく、弥生文化の先取りをしたものではないかと考えられる。

 そう考えると、人骨の傷も、居徳遺跡周辺に住みついた弥生人の先駆けというか、土着の縄文人とは異質の「異人」が土着の縄文人と戦い、付けたものではないかとの推測も成り立つ。人骨の傷は歴史教科書を書き換えるほどの価値があるだろう。

 ただ、居徳遺跡の時代から弥生時代が始まるまでには数百年の隔たりがある。その辺をどう解釈するか。遺物の整理が進めば、石器や土器にこれまでの「縄文」の範ちゅうから外れる点が出てくるのでは、と期待している。

 ……………………………

 まつい・あきら 大阪府堺市生まれ。東北大大学院文学研究科博士後期課程中退。現・奈良文化財研究所に入所し、英国ブリティッシュミュージアム客員研究員、米国ハーバード大客員研究員などを経て現職。京都大大学院人間・環境学研究科助教授を併任する。専門は動物考古学。奈良市在住。49歳。


▼居徳遺跡の殺傷痕人骨「評価変わらず」 弥生の年代変更説 /高知
2003/05/21朝日新聞朝刊

 「弥生時代の始まりが約500年さかのぼる」という国立歴史民俗博物館(千葉県)の研究発表が波紋を広げている。県内には、殺傷痕(さっしょうこん)が付けられた骨が出土して「戦争の起源は縄文時代にあった」と論議を呼んだ居徳遺跡(土佐市)があるが、時代区分が変化すると、この遺跡への評価は変わるのか?

 居徳遺跡は県埋蔵文化財センターが98年に発掘し、土器などから遺跡の年代を2800年~2500年前の縄文晩期後半とした。この遺跡から出土した人骨を奈良文化財研究所(奈良市)が鑑定し、昨年3月に「矢じりが貫通したり、刃物で切られたりした骨がある」と発表。集団と集団が争う戦争は弥生時代が起源とされていたが、これが縄文時代にはすでに始まっていたことを示唆すると話題を集めた。

 一方、名古屋大年代測定総合研究センターがこの人骨を放射性炭素年代測定した結果、当初推定されていたよりもさらに500年ほど古い、3200年~3000年前のものであることが判明した。

 県埋蔵文化財センターの曽我貴行主任調査員は国立歴史民俗博物館の調査対象が九州北部の遺跡だったことから「九州北部と高知とでは同じ時代に違う文化の営みがあったはず。九州北部の時代区分を高知にはそのまま当てはめられない」と語る。曽我さんはその上で「たとえ弥生時代の始まりが500年さかのぼったとしても、出土した人骨は縄文時代のものであることには変わりがない」と強調した。

 人骨から殺傷痕を発見した奈良文化財研究所遺物調査技術研究室の松井章室長は「絶対年代だけで時代区分すると混乱を招く」としながら、「居徳遺跡には弥生時代を象徴する稲作の痕跡はなく、殺傷痕付き人骨が縄文時代のものだというスタンスは依然変わらない」と、今回の発表から影響を受けないことを強調した。


▼特報2002 鳥取大・井上教授が考察「青谷上寺地遺跡の弥生人です。縄文人より細面」 
戦い方…弓矢で負傷させ襲撃 健康状態…肺結核でカリエスも
2002/05/10中国新聞朝刊

 鳥取県青谷町の青谷上(あおやかみ)寺地(じち)遺跡。弥生時代の多量の人骨や生活用具が出土し「弥生の博物館」と呼ばれる。殺傷痕が痛々しく残る百十点もの人骨、遺伝子本体のDNAを含んだ脳が残存していた三点の頭骨などは、全国の研究者の注目を集めた。発掘時から調査に携わる鳥取大学医学部の井上貴央教授(解剖学)の考察で、当時の戦いの様子や健康状態なども明らかになりつつある。弥生の“タイムカプセル”に迫った。(田中克章)

 「人骨の総数は約六千点、百三十体分にのぼっている。縄文人より細面の渡来系弥生人で、男性骨が女性よりやや多い。年齢は男性は三十歳代、女性は二十歳代が多い」。同町でこのほど開かれた「遺跡を学ぶ会」。井上教授が研究成果を発表した。

 ▽女性の寿命は短く

 赤ちゃんの骨が約十体分もあった。「当時は出産が大変で、母子ともに亡くなるケースが多かったろう。女性の寿命が男性より短かったことと関連するのでは…」と推測する。

 鋭い刃物跡の残る百十点の人骨は、体の左側を中心に胸や足などにあった。銅のやじりが貫通したまま残っている骨盤もあった。男女を問わず、全身に傷があることから処刑とは考えられず、部族間などの戦いの犠牲者と思われている。

 戦い方は、まず弓矢で負傷させる。近付くと右手で持った武器で襲撃。頭がい骨に穴があくほどたたいたり、動けない者の背中からとどめを刺すなど、悲惨な状態がしのばれた。魏志倭人伝に記された「倭国大乱」の時代を裏付ける有力な資料となった。

 当初、村ぐるみで惨殺され、溝に遺棄されたとの見方があった。一体ごとの骨の散乱状態を調べた結果、戦死者の骨が掘り起こされ、他の埋葬骨と一緒になったと推測されている。

 ▽DNA分析に注目

 注目されるのは脳からのDNA分析。「DNAが含まれていることは確認できた。細胞小器官ミトコンドリアDNAか、核DNAか、あるいは発掘者のものが付着したのか、確認中だ」。井上教授は慎重に話す。全遺伝情報を持つ核DNAが検出されれば、大陸との人的つながりが分かり、世界的な発見になる。

 その他、肺結核による脊椎(せきつい)カリエスが二例、頭骨が変形する頭蓋(とうがい)縫合早期癒合症一例があった。いずれも日本最古の症例で、医学研究の重要資料となった。

 新発見続きに、町は近くに遺跡展示館を建設した。昨夏の開館後の見学者は約二万人。ボランティアガイドをする地元の石井洋さん(70)は「和紙の里が、今は弥生遺跡の里として有名になった」と誇る。遺跡を町おこしに生かす話も出ている。

 全国からは研究者たちが訪れる。「遺物が豊富で、新しい所見が出てくる貴重な遺跡だ。DNA研究は、時間も金もかかるが、正確なデータを蓄積してほしい」。埴原和郎東大名誉教授(自然人類学)は望んだ。

 衝撃的ともいえる出土品の数々。しかし、井上教授は「自然は時々、とんでもないいたずらをするから」と、徹底した科学調査と論理を重んじ、奇をてらうような推測の仕方を嫌う。今は青谷上寺地遺跡が、弥生時代のすべての状況だと決めつけるわけにいかない。これから各地で同様の発見が加わるごとに、青谷上寺地の貴重さは一段と高まると思われる。

 《青谷上寺地遺跡》日本海から約1キロ内陸部の弥生時代の生活跡。国道新設工事に伴い1998年から発掘調査を続け、弥生後期後半(2世紀代)の人骨約6千点をはじめ、木製品9千点、骨角製品千4百点、獣骨2万7千点など出土している。水田下の粘土層に覆われ、保存状態がよい。頭骨に残存した脳組織のほか、日本最古の木製の窓、シカの角3本を束ねた漁労用銛(もり)、日本最多の95点のト骨(ぼっこつ)など新発見が多い。

▼弥生期に鉄剣の白兵戦 人骨の傷から武器を特定 鳥取の青谷上寺地遺跡
2001/07/15中国新聞朝刊

 奈良文化財研究所の深沢芳樹主任研究官は、鳥取県・青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡で出土した人骨(二世紀=弥生時代後期後半)の殺傷痕を分析。切り傷は、鉄剣や鉄刀など鉄の武器による可能性が極めて高いとの結論を、十三日、京都市で開催の日本人類学会・日本霊長類学会合同大会で発表した。

 この時期、山陰地方にも鉄がかなり普及していたことを示しており、北部九州に比べて他の地方で鉄の出土量が少ないのは、回収してリサイクルしていたという説を裏付け、邪馬台国論争にも影響しそうだ。

 また傷の形状から、動物の骨製の鏃(ぞく)(やじり)の使用も判明。青銅、骨などさまざまな材料の大量の矢を射かけ、白兵戦では高性能の鉄剣や鉄刀を使う、という弥生の戦闘の様子がうかがえそうだ。

 深沢主任研究官は、同時期の各種武器の厚さや断面形などと、人骨の傷を比較した。切り傷では、切り始めが鋭く傷の幅も狭く、突き刺されて開いた頭がい骨の穴は細長いひし形。いずれもスリムで鋭利に仕上げられる鉄の武器しか考えられないと結論付けた。

 一方、頭がい骨には直径数ミリの丸い傷もあり、これは骨鏃や骨製のやすの断面形としか一致しなかった。ともに同遺跡から出土。傷からは鏃かやすか判断できないが、やすを投げやりとして使った可能性もあるという。

 北部九州では墓の副葬品などとして大量の鉄が見つかっており、邪馬台国九州説の根拠のひとつとなっているが、畿内説側は他の地方には副葬の風習がなかったうえ、何度でも溶かして作り直したので残っていないと反論している。

 《青谷上寺地遺跡》鳥取県青谷町にある弥生時代中―後期の集落。これまでに九十二体の人骨が出土し、うち約十体分には殺傷痕があった。大規模な戦闘が行われたとみられ、魏志倭人伝が伝える倭国(わこく)の乱(二世紀後半)との関係が注目されている。また、脳組織が残った頭がい骨や結核症状のある骨のほか、中国の貨幣「貨泉」、鯨骨製の剣、鉄おの、銅鐸(どうたく)片、琴など多様な遺物が見つかっている。


▼青谷の弥生人 朝鮮半島南部の頭骨と酷似 鳥取大医学部が調査=鳥取
2004/05/15大阪読売新聞朝刊

 ◆深いつながり裏付け

 弥生人の人骨約百体や脳が見つかった青谷上寺地遺跡(青谷町)で出土した頭骨の形状が韓国南部の慶尚南道の遺跡で見つかった頭骨と極めて似ていることが十四日、鳥取大医学部の調査でわかった。朝鮮半島からの渡来系とされ、北九州などで出土した頭骨よりも酷似しており、調査した井上貴央教授は「青谷の弥生人が朝鮮半島と深いつながりをもっていたことが裏付けられた。さらに詳細な比較検討を進めたい」としている。

 県教委が同大医学部に研究を委託した。井上教授の研究グループは四―七世紀の古墳群で約二百体の人骨が発見された慶尚南道の礼安里遺跡や、朝鮮半島からの渡来系とみられている弥生時代の金隈遺跡(福岡市)、土井ヶ浜遺跡(山口県豊北町)の頭骨と比較するため、頭骨の外形や眼窩(がんか)、鼻など九項目を測定した。

 その結果、青谷上寺地遺跡から出土した二世紀後半の頭骨の形状は金隈、土井ヶ浜両遺跡より、礼安里遺跡の頭骨に近いことが判明した。

 人骨から抽出したDNA解析では青谷上寺地遺跡の弥生人が、現代の韓国、日本人と同じグループに入ることが昨年度までの調査でわかっている。


<画像引用>

居徳遺跡群
http://pc2.sites-tosa-unet.ocn.ne.jp/pdf_sites/publication/contents/sites_navigator/itoku_sites.htm

グローバリスト vs 今西錦司「棲み分け理論」(Blondyさんより)2009/08/16 23:46

melting pot or salad bowl?


1.棲み分け理論と戦争について

人類は、類人猿の中で最後発の新人という、きわめて頭脳が発達し兇暴な性質をもったタイプの類人猿の子孫であり、各種の大型哺乳類やネアンデール人の絶滅に関してもとかく噂のある存在ですので、残念ながら、過去の歴史に照らしてみても、同族グループ間でほっておいて上手にいつも棲み分けできるタイプとは思えません。

ある時間的断面で見れば、自然な棲み分けによる共生システムが成立しているように見える世界でも、どこかの地域で気候変動等による飢饉がおきたり、人口圧力が高まったりすれば、ゴートやハン、バイキング、モンゴル等のバーバリアンが欧州を荒らしたような戦争・略奪・民族移動が起きるのは自然なことのように思います。

手近なところでは、1930年代までの中国江南地方の農村部では、飢餓に陥った村が近在の村を襲うと、次には略奪された村が生き延びるために新たに別の村を襲うという悪循環が日常的に起きていたことが知られています。

日本の戦国時代でも、武士だけでなく、雑兵として戦闘に臨時参加する貧しい農家の次男、三男にとっても、戦争は給金や報償金の他に、乱捕りで金銀や農作物や奴隷を生け捕りにして稼ぐ貴重な機会でした。

戦争は、不況対策・雇用対策、内政圧力のすり替え、アドベンチャー、投機といろいろな性格を帯びているし、基本的に外交の延長線上に位置づけられるものでしょう。

戦争を減らすには、極端に貧困化した地域をなくし、食糧援助や開発援助を行ってとにかく食えるようにすることが大切で、この支援面ではずいぶん進歩してきましたが、一方で軍産複合体をコントロールすることや国連機構の改革や強制力強化などはほとんどできていないので世界中で戦火が絶える気配は現在までのところまったくありません。

20世紀は極端な戦争の世紀であり、それが21世紀になって大きな戦争もなしに突然平和の世紀に転換することはなく、資源枯渇の顕在化や世界同時バブル崩壊を迎えている現在それはなおさらあり得ないでしょう。

2.「多文化共生」と棲み分けシステムについて

<植民地時代>
世界中から各種の動植物や人種を選んで各支配地域に移植し、プランテーションや鉱山を開発・経営し、植民地では複数の民族の利害対立を調整する超然とした地位を保って君臨し、直接支配で搾取するのが7つの海を支配した大英帝国の植民地経営でした。

この時代に、グローバル規模で、アメリカや現在のコモン・ウエルス諸国を中心に大規模な、移民まぜまぜ、植物まぜまぜがおきた。

<新興国開発援助時代>
第二次大戦後、民族自決意識の高まりと英覇権の衰退から植民地に旗を立てて管理する方法は廃され、コロニーは独立して国民国家となり、冷戦構造も背景として、新覇権の米国主導で開発援助政策が採用され、新興国家・開発途上国の多くは自由市場資本主義体制に組み込まれていき、その開発利潤は金融資本による株式支配の形で先進国に移転するスタイルに切り替わりました。

この時代は、有色人種に対する差別意識や同人種内結婚の習慣も残っていたため、異人種間の混血すなわち人種まぜまぜは比較的ゆっくり進みました。

<本格的なグローバル体制の時代>
冷戦終結以降、自由市場資本主義体制は旧社会・共産圏を取り込んでグローバル自由市場資本主義体制として一体化し、世界的に物や資本、人の移動や情報の交換が大幅に自由となった。また発展途上国の多くが相当に経済力をつけて、先進国の仲間入りを果たす国々が出るだけでなく、BIRCsの台頭が多くの人々に予見されるようになった。

この本格的な自由主義型のグローバル時代の到来により、移民まぜまぜだけでなく、人種まぜまぜも加速しつつあるのが現在の人類社会の姿ではないでしょうか。

グローバリストの観点からすれば、ここからさらに、国民国家のソブリニティを弱めて世界的なルールや組織の下である程度管理できるようにして、世界金融寡頭制のグローバルスケールでの優位性を、将来資本主義が続く場合でもあるいは資本主義以外の別の体制となる場合のどちらでもつねに確保できるようにしておきたいので、まずは主要国家や主要都市が、民族主義や独自路線で固まって、グローバル化の流れに逆らうようになることを避けるという方向に舵を切るのは当然の流れでしょう。そのためには、上からの判断にもとづいた移民まぜまぜだけでなく、人種まぜまぜを加速させる各種の政策勧告や奨励策が取られることは明白ではないかと思います。

その意味では現段階で「多文化共生」を心配することなどはなにか周回遅れという感じであり、個人的には、文明史的に言えば事態は「多文化共生」からさらに進んだ「メルティングポット化」の促進により、グローバル文明時代にふさわしい新しい文化をはぐくむ方向に踏み出しているという認識であり、今後は古い民族主義や国民国家意識にもとづいた棲み分け理論には原理主義的とかリバータリアニズムというレッテルが張られていく時代になるのではないかという予感がします。

おそらく、グローバリストのコアの発想は、世界的な大混乱の時代でも経て、誰もが平和の為に中央集権的な世界権力を認める気になり、その下で超管理社会を生きる選択をするようになるときには、その時の人類の主役は「多文化共生」や「メルティングポット化」をごく当たり前のこととして生きる世代となっており、そこではじめてかなり恒久的な平和と安定時代が訪れる可能性があるといったところではないでしょうか。


<画像引用>
http://chnm.gmu.edu/exploring/images/stir.jpg