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武器から読み解く「国生み神話」:淡路島・垣内遺跡の鉄器巨大工房2009/08/13 00:30

神戸新聞:国内最大の鉄器工房跡 淡路島の弥生時代遺跡 


昨日、二上山のサヌカイトに詳しい考古学者にお電話。
(この方はかつての私の上司で今や世界を飛び回る日本のインディアナ・ジョーンズ!)
二上山のサヌカイト経済圏に武器商人のルーツを見出すのは難しいとのご指摘(笑)

ただし、弥生中期になると青銅器に対抗するかのように石器も大型化。
この頃から「武器としての石器」が当時の権力者たちと結びついた可能性があるとのこと。

しかし、青銅器の時代は長く続かず、たちまち鉄器の時代へ。
権力者たちが鉄に群がったとしても不思議ではない。

今年は鉄器発掘の当たり年。
大阪・長原遺跡に続いて、淡路島・垣内遺跡も紹介しておきます。

さて、鉄といえば今や気になるのは中国と英豪系資源大手リオ・ティントの戦い。
中国上海市検察当局は拘束していたリオ上海支社幹部4人を産業スパイと贈賄容疑で正式逮捕へ。

「鉄の熱いうちのド突き合い」は何度も何度も繰り返されてきたようです。


<関連記事引用>

▼国内最大の鉄器工房跡 淡路島の弥生時代遺跡(画像引用)
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0001667526.shtml

 淡路市黒谷の垣内(かいと)遺跡の発掘で、鍛冶(かじ)工房跡計十カ所が確認され、弥生時代後期(一〇〇-二三〇年)で国内最大規模の鉄器製造群落だったことが分かった。同市教委が二年間の調査結果として二十二日発表した。弥生時代の鍛冶工房跡は九州など西日本各地で見つかっているが、建物が密集した製造専門集落は全国的に珍しく、当時のいわば工業団地。専門家によると、大和政権成立以前の有力者の一大武器供給源だった可能性もあるという。(西尾和高)

 垣内遺跡は播磨灘の海岸線から三キロの丘陵地にあり、東西五百メートル、南北百メートル。昨年度に本格調査が始まり、弥生時代後期前半の鉄器工房跡二カ所が発見されていた。

 本年度の調査で八カ所を確認。強い熱で赤く焼けた炉跡があった。床面は円形(七棟)と方形(一棟)。当時の建物としては規模が大きく、最大で直径一〇・五メートルある。

 鉄製の矢尻や鉄片なども四十五点出土し、弥生時代の工房跡での出土鉄器数としてはかなり多い。矢尻などは、近畿地方で見つかる鉄製品とは違い、鉄を切って整えただけの単純な形のものではなかったという。

 鉄は弥生時代中期初頭、中国、朝鮮半島から九州へ伝わった。その後、山陰、近畿へ伝わった日本海ルートと、四国までの瀬戸内海ルートがあるとみられている。今回見つかった鉄器の特徴などからは、徳島から淡路島へ渡ってきた可能性もあるとみられる。

 東アジア考古学・冶金(やきん)考古学を研究する愛媛大学法文学部の村上恭通教授は「農耕民の生活臭がない工房空間で、例がない密集度は安定的な生産を裏付けている」と指摘。市教委は「淡路島が鉄器生産で重要な鍵を握っていたことになる」としている。


▼(単眼複眼)「日本の起源」神話に迫れ 淡路島・垣内遺跡に鉄器工房跡 【大阪】
2009/01/30朝日新聞夕刊

 弥生時代の鉄器工房跡が10棟も見つかった兵庫県淡路島・垣内(かいと)遺跡。その眼下に広がる穏やかな瀬戸内海を渡って、朝鮮半島や中国から鉄素材(原料のインゴット)がもたらされていたとされる。このころ、鉄は「国際分業」体制に委ねられていたらしい。

 中国の史書『魏志』韓伝にはその頃、倭(わ)人が盛んに朝鮮半島で鉄を採取していたと記されている。砂鉄などを溶かして鉄素材にする技術は早くから朝鮮半島にあった。一方、日本列島では、鉄は農耕具や武器の重要な資材だったが、岡山県南部で5、6世紀に開始されるまで明確な製鉄の痕跡はない。それ以前の鉄器づくりは、採取・製鉄過程を大陸に頼っていたのだろう。また、多くの鉄器は回収され、垣内遺跡のような鍛冶(かじ)施設で再加工されたと考えられる。

 垣内遺跡では、1棟の中に10基の鍛冶炉が配置された工房もあった。古代の鉄に詳しい愛媛大学東アジア古代鉄文化研究センター長の村上恭通教授は、長期にわたって安定的に鉄器を生産していたと推測する。「徳島県域でも似た鉄製品や工房が見つかっており、連動していた可能性もある」

 いわゆる「国生み神話」で最初に登場するのが淡路島である。史実ではないが、こうした神話の存在から、古代人にとって淡路島は特別な地だったと推察できる。ところが海を隔てた大阪南部にある巨大古墳のような目立つ遺跡は、これまで島内では見つからなかった。垣内遺跡の発見で、古代史上の淡路島は「やはり先進地だった」と見直されるのは確実になった。

 島根県の出雲も、豊かな神話に彩られながら実像は「あいまい」とされてきた。それが、大量の青銅器や出雲大社の壮大な柱跡などの相次ぐ発見で、学界をあげて古代史の再検討が始まった。淡路の調査・研究にも、同様の期待が高まっている。


▼淡路 鉄器製造群落発見の垣内遺跡 古代国家の謎解明に新視角 
邪馬台国の所在めぐる論争に一石か 畿内説補強の可能性
2009/01/31神戸新聞朝刊

 弥生時代で国内最大規模の鉄器製造群落と分かった淡路市黒谷の垣内(かいと)遺跡。流通ルートが謎だった弥生時代後期(100―230年)に、鉄器を安定的に製造していたとみられる。鉄器の加工拠点がほとんど見つかっていなかった近畿で、大きな製造群落の発見は初めて。当時、権力の象徴だった鉄器を、どんな権力者が何のために作らせていたのか。邪馬台国(やまたいこく)論争にも一石を投じる可能性があり、考古学ファンの注目を集めている。(津名支局・西尾和高)

 播磨灘を見下ろす標高二百メートルの丘陵地。東西五百メートル、南北百メートルの発掘区域から、十カ所の鉄器工房跡が発見された。昨年度からの調査では鉄製矢尻や鉄片など約七十点も出土しており、当時の“ハイテク工業団地”のようなものだったらしい。

 国内の鉄器製造は弥生時代中期、中国や朝鮮から九州へ伝わったとされる。しかし当時、国内では鉄素材の自給は困難で、輸入した材料を加工していたとみられている。

 後期になると、生産用具が石器から鉄器へ変化する。政治的先進地が九州から畿内へ変わろうとしていた時期。古代中国の複数の歴史書に、小国が乱立し覇権を争った「倭(わ)国(こく)大乱」の世とある。大和政権が成立する前の激動の時代だった。

 では、淡路島に巨大工房を開き鉄を生産していたのは誰か。そんな疑問に対し、芦屋市教委(日本考古学)の森岡秀人学芸員はこう推測する。

 「垣内遺跡は一般集落ではなく、鉄器生産に特化した工房跡。倭国大乱で武器が必要とされていたが、畿内に工房は少なかった。この遺跡が供給源だったのではないか」

 島内では、有力者とみられるような墳墓が、今のところ発見されていない。さらにこの時期、島の人口が急増しているが、水田に適した平野に乏しいため、人口増が農業生産によるとは考えにくい。これらの理由から”工業団地”化は島外の有力者がもたらした、というのが多くの専門家の見方だ。

 岡山大学(弥生時代集落論)の松木武彦准教授は「播磨から河内にかけた大阪湾沿岸、奈良盆地周辺の有力者たちが連合し、鉄を中心とした物資の流通を統括し、その拠点を沖合の要衝地である淡路島で築いたとも考えられる」という。

 倭国大乱の時代は、邪馬台国の成立につながった国内の動乱期。邪馬台国の所在をめぐっては畿内説と九州説があり、決着はついていない。それぞれに根拠が指摘されているが、畿内説最大の弱点とされるのが鉄。九州や山陰地方を中心に多く見つかっている鉄器工房跡が、近畿ではほとんど確認されていない。鉄器の出土も、九州と比べて圧倒的に少ないからだ。

 いわば鉄の“空白地域”だった近畿で、新たに見つかった大規模鉄器工房跡。「邪馬台国との関係が、もし分かったら…」。発掘調査にあたった淡路市教委の伊藤宏幸課長補佐は期待を込める。森岡学芸員も「古代の日本社会は鉄とともに育った」とし、工房の発見が畿内説を補強する可能性を指摘する。

 今のところ、所在地論争に直接結びつける決め手はない。しかし淡路島に工房を築いた勢力が、古代国家の成立に深くかかわっていた可能性は高い。それがもし邪馬台国だったら…。古代史のロマンの扉は、まだ開いたばかりだ。

〈倭国大乱〉

 2世紀末に古代日本の倭国で起こったとされる大規模な争乱。古代中国の複数の歴史書に記述がある。倭国は代々男子王だったが何年間も争乱が続き、邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)を倭国王とすることでようやく収まったという。


<関連記事>

二上山のサヌカイト経済圏に武器商人のルーツあり?
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2009/08/09/4488172

鉄器を制したのは誰だ?
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2009/08/09/4488207