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三本足カラスの謎を追う2011/01/26 08:48

三本足カラスの謎を追う 太陽の中に描かれた三足烏。高句麗の壁画。


サッカーに自衛隊。最近何かと忙しいカラス君。
まもなく民主党系のパーティーにも出没するとの情報も(笑)

お隣韓国でも何やら話題になっています。


<関連記事引用>

「太陽の中の三足烏」の意味を読み解く
http://www.chosunonline.com/news/20110123000021

太平の世では翼をたたみ、外部からの侵入があれば翼を大きく広げる三足烏

『韓民族と太陽の中の三足烏』出版

4世紀の高句麗古墳に初めて登場、後に朱雀・鳳凰へと変化


 高句麗の古墳壁画によく見られる「三足烏」は、太陽の中で生きる、三本足を持った想像上のカラスだ。中国・集安の「五●墳4号墓(●は灰に皿という字、カイ)壁画には、円(太陽)の中で翼を半円形に広げて立つ三足烏が描かれている。また、北朝鮮の平壌・徳興里古墳や江西中墓には、太陽の中の玄鳥が翼を広げて飛び立つ様子が描かれている。

 美術史を専攻するキム・ジュミ博士(51)が檀国大大学院史学科(考古美術史専攻)に提出した博士学位論文を基に、『韓民族と太陽の中の三足烏』(学研文化社)を出版した。本書は、丸い太陽の中に黒いカラスを結合させた日象文、すなわち「太陽の中の三足烏」が、韓国文化の中でどのように形成され、時代によってどのような変化を遂げ、現代に至ったのかを広く分析している。

 キム博士は、4世紀の高句麗の古墳壁画に初めて登場する「太陽の中の三足烏」がこのような図像の枠組みを持つに至った背景には、古来から伝承されてきた太陽崇拝やソッテ(信仰の対象、または何かのお祝いのために立てる長い竿)信仰・卵生説話などの「鳥トーテム」が緊密に関係していると分析した。太陽とカラスとの関連については、高麗の文臣・李奎報(イ・ギュボ)の詩文集『東国李相国集』の「東明王篇」で、太陽の化身である解慕漱(かいぼそ=高句麗の建国神話では天帝の子で、東明王〈朱蒙〉の父とされる)が頭にカラスの羽で作った「烏羽冠」をかぶっているところに淵源を求めることができると解説している。

 特に高句麗の古墳壁画以降、日象文の姿が時代によってどう変遷していったかという点は興味深い。政治的安定期や全盛期には、三足烏が円の中で翼をたたんだ姿が描かれることが多かった。これに対し、外部勢力の侵入などで自主意識が高揚した時期には翼を大きく広げた三足烏が、また極度の政治的混乱期には太陽の中から飛び立つ三足烏が主に描かれた。

 例えば高句麗時代には、6世紀半ばを前後して、三足烏は翼をたたんだ姿から翼を大きく広げた姿へと変わっていった。そして高麗初期には、三足烏がいない円だけの日象文が登場したが、10世紀末に起こった契丹の侵入以降、高句麗継承意識が強く提起されるようになり、当時の首都だった開城の玄化寺碑(1022年)や、原州の智光国師玄妙塔碑(1085年)には、太陽と三足烏が結合した日象文が再び登場した。玄化寺碑と智光国師玄妙塔碑に描かれた三足烏は、翼を大きく広げて立ち、尾羽を高々と掲げ巻き上げているのが特徴だ。

 キム博士は「太陽の中に見える三足烏はただのカラスではなく、慶事をもたらす瑞鳥の象徴で、後に朱雀や鳳凰へと変わっていった。韓国の日象文の伝統は、高句麗以来現在も、大統領の紋章や国璽の装飾に用いられる形で受け継がれている」と語った。また、キム博士は「生命と夜明けを象徴する赤い太陽の中に、死と夜を意味するカラスのような玄鳥を組み合わせた表現には、生成と消滅が境界なく併存する宇宙論が込められている」と解釈した。


<関連サイト>

日本サッカー協会と八咫烏
http://www.jfa.or.jp/jfa/organization/index.html
http://www.famima.com/shop/g/g3210000027486/

中央情報隊 JGSDF Military Intelligence Command:MIC
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E6%83%85%E5%A0%B1%E9%9A%8A
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Military_intelligence_command_JGSDF.png

桜井茶臼山古墳、大量の赤色顔料「水銀朱」は権力の象徴か2009/10/23 00:41

桜井茶臼山古墳、大量の赤色顔料「水銀朱」は権力の象徴か


学生時代の遺跡発掘調査の経験から、「日本を知りたければ水銀朱を追え」が私の持論。
その水銀朱が今日のニュースの主役。

水銀朱を追えば、ヤマト王権に神社に曼荼羅、そして山師・空海のことも解ける。
神社の多くは「この水源とったどー!、この水銀鉱とったどー!」という旗印のようなもの。

時の権力と結びつき、中国も巻き込んだ熾烈な奪い合いがあったはず。
資源ナショナリズムの原点が水銀に見出せる。

そして、三井のルーツにも伊勢の水銀あり。これが実におもしろい。


<関連記事引用>

石室の大量の水銀朱は権力の象徴 桜井茶臼山古墳で確認(画像引用)
2009.10.22 19:56
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091022/acd0910221957009-n1.htm

 初期大和政権の大王クラスの墓とされる前方後円墳、奈良県桜井市の桜井茶臼山古墳(全長約200メートル、3世紀末-4世紀初め)で、被葬者を納めた竪穴式石室の全面が大量の水銀朱で赤く塗られていることが分かり、県立橿原考古学研究所が22日、発表した。水銀朱の総重量は約200キロと推定され、国内の古墳で確認された量としては最多。

 水銀朱は当時、不老不死の薬ともされており、研究所は「貴重な水銀朱を大量に使って、権力の大きさを示したのでは」としている。

 竪穴式石室は長さ6・75メートル、幅約1・2メートル、高さ約1・6メートルと判明。内部には、木棺(長さ4・9メートル、幅75センチ)の底板がほぼ当時の状態で残っていた。石室の壁は、一辺50~60センチ大の板状の石材数千枚を積み上げて構築。石材のほぼ全面に水銀朱が塗られていた。水銀朱は、大和(奈良県)で多産した辰砂(しんしゃ)という硫化水銀の鉱物を粉状にすりつぶして水に溶かしたのち、石材に塗ったとみられる。

 国内の古墳で使われた水銀朱はこれまで、大和天神山古墳(奈良県天理市)で確認された42キロが最多とされていた。

 桜井茶臼山古墳は昭和24~25年に発掘調査されているが、研究所が石室構造などの解明を目指し再調査していた。

 現地見学会は29~31日の連日午前10時~午後3時に行われる。

     ◇

 古代の人々はなぜ「赤」にこだわったのか。「死者の魂をよみがえらせる」「権力の象徴だった」-。研究者たちは、王者の眠る神聖な空間にさまざまな思いをはせた。

 桜井茶臼山古墳が築かれた時代に中国で流行した神仙思想についての解説書「抱朴子(ほうぼくし)」(317年成立)には、「丹」(=水銀朱)について「飲めば不老不死の仙人になれる」と記されている。

 森浩一・同志社大名誉教授(考古学)は「純度の高い水銀朱が使われており、不老不死を強く願った被葬者の姿がうかがえる」と指摘。河上邦彦・神戸山手大教授(考古学)も「血の色を思わせる水銀朱によって、死者の再生を願ったのではないか」と推測した。

 一方「抱朴子」には「仙薬(仙人になるための薬)のうち、最上のものは丹砂(=水銀朱)。次は黄金」と記載。和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(古代史)は「金よりも貴重とされた水銀朱が、200キロも使われていたとは」と驚く。

 和田教授によると、水銀朱の産地候補の一つは奈良県宇陀市付近。この一帯は、昭和後期まで水銀を採掘する鉱山が点在した国内有数の辰砂の産地で、桜井茶臼山古墳やこれまで最多の出土量とされていた大和天神山古墳とも近く、和田教授は「大和政権の成立を考える上で水銀朱は重要な要素になるだろう」と話した。


<関連記事>

NHKニュース 石室に赤い顔料が大量使用(ビデオあり)
http://www.nhk.or.jp/news/t10013297821000.html

桜井茶臼山古墳:石室全面に赤色顔料「水銀朱」 奈良
http://mainichi.jp/enta/art/news/20091023k0000m040039000c.html

全面朱塗りの石室出土 大王の墓?奈良・桜井茶臼山古墳(画像引用)
http://www.asahi.com/national/update/1022/OSK200910220095.html

水銀朱で魔よけ、桜井茶臼山古墳の石室公開
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20091022-OYT1T00980.htm

茶臼山古墳、石室豪華な朱一色、60年ぶり再発掘で発見
http://www.nikkei.co.jp/news/main/im20091022AS5C2202D22102009.html

空海と曼荼羅と水銀朱
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2008/07/20/3639282

蛇信仰と注連縄:吉野裕子の「猿田彦=蛇神=伊勢大神」説2009/09/03 08:43

吉野裕子全集〈第5巻〉日本人の死生観・陰陽五行と日本の民俗


カラスもびっくり。猿田彦は蛇神か?!


<以下、吉野裕子全集〈第5巻〉P118~119より引用>

天照大神は、この祖霊の蛇としての伊勢神宮を祀り、この蛇と交わるべき最高の女蛇巫(へびふ)であった。しかし時代がたつと、皇室の祖が蛇であってはならなくなり、最高女蛇巫はその祭祀対象であった伊勢神宮に自身を昇格させて、天照大神となる。

いっぽう、蛇巫であった頃の天照大神の面影を伝えるものは天鈿女、祖霊の蛇の名残をとどめるものは猿田彦、というふうに分化、伊勢大神という祖霊の蛇は、表面からはまったく姿を消したのである。


さきにわたしは、天孫を迎え出た猿田彦こそ伊勢大神であり、かつ蛇神であろうと推測したが、『日本書紀』によれば、その猿田彦は五十鈴川の川上に向かったということである。ここに「五十鈴川に祀られる神こそ伊勢大神の前身である」という古伝承を合わせると

猿田彦=五十鈴川の神(『日本書紀』)
五十鈴川=竜蛇=伊勢大神(古伝承)

ということになり、猿田彦が蛇神で伊勢大神であろうという推測が、にわかに現実性を帯びて迫ってくるのである。


<関連書籍>

吉野裕子全集〈第5巻〉日本人の死生観・陰陽五行と日本の民俗
http://www.amazon.co.jp/%E5%90%89%E9%87%8E%E8%A3%95%E5%AD%90%E5%85%A8%E9%9B%86%E3%80%88%E7%AC%AC5%E5%B7%BB%E3%80%89%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%AD%BB%E7%94%9F%E8%A6%B3%E3%83%BB%E9%99%B0%E9%99%BD%E4%BA%94%E8%A1%8C%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%B0%91%E4%BF%97-%E5%90%89%E9%87%8E-%E8%A3%95%E5%AD%90/dp/4409549928/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1251932532&sr=1-1