Google
WWW を検索 「園田義明めも。」を検索

南三陸町「五十鈴神社」訪問 - 未来の人々へ「地震があったら、この地よりも高いところへ逃げること」2013/07/20 18:27

南三陸町「五十鈴神社」訪問 - 未来の人々へ「地震があったら、この地よりも高いところへ逃げること」


<関連記事>

東日本大震災/津波到達点、後世に/宮城・南三陸町で記念碑完成
2012/11/13 河北新報朝刊

 東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県南三陸町戸倉折立地区で、住民らが避難した高台の五十鈴神社に、津波到達点を伝える記念碑が完成した。

 標高23メートルに立つ石碑は「未来の人々へ」で始まり、「地震があったら、この地よりも高いところへ逃げること」との教訓や、地区の津波被害の状況が刻まれた。

 折立地区は132戸全戸が全半壊、39人が死亡、行方不明になった。五十鈴神社には住民や戸倉小、戸倉保育所の子どもら約190人が逃れた。

 震災から1年8カ月の11日、石碑の除幕式があり、多くの住民が犠牲者をしのんだ。企業の支援を得て記念碑を建てた地区住民互助組織の佐藤真さん(64)は「津波の知識があれば犠牲者は少なかった。500年、1000年先に記憶が風化しないよう石碑で伝えたい」と話した。


デスク日誌/千年先へ/東日本大震災の津波到達点を知らせる記念碑が宮城県
2012/11/27 河北新報朝刊

 東日本大震災の津波到達点を知らせる記念碑が宮城県南三陸町の高台にある五十鈴神社に完成した、という記事が先日、1面に掲載された。引かれたのは「千年先に記憶が風化しないように石碑で伝えたい」という地元男性(64)の言葉だ。

 190人もの住民が石碑脇の参道を駆け上がって津波を逃れた経験を踏まえ、「津波の知識があれば犠牲者は少なくなる」と子孫たちを思いやる。縁あって審査員を務めた中学生弁論大会でも同じような気持ちに触れた。

 最優秀賞に輝いた岩沼市の女子生徒は、同市の「千年希望の丘」での植樹祭に参加した経験を紹介した。震災で発生したがれきを盛り土に活用し、津波よけの機能を担う丘にタブノキなど20種類の苗木を植えた。

 「悲劇を繰り返さないように、つらい思い出を次世代へ伝えることが私たちの使命」「将来、自分が植えた木の意味を自分の子どもにも教えたい」と覚悟を示し、たくましさと爽やかさを感じた。

 献身や思いやりとは縁遠い性格なのだが、言葉が心にすとんと入り込み、自然に共感できた。(報道部副部長 藤原陽)


(磯田道史の備える歴史学)建つべき位置学んだ神社 南三陸の津波の痕跡
2013/04/20 朝日新聞 朝刊

 春休みに宮城県の南三陸町に入った。東日本大震災の津波の痕跡をたしかめるためである。白い巨大な建造物はベイサイドアリーナ。五百をこえる遺体を安置したその「白い箱」をのぞむ幼稚園で園児らとかけっこをした。

 ふと視線を感じた。年格好は私と同じぐらいの男性であった。私が会釈をすると黙って名刺を差し出した。みると「大川小学校遺族」とあった。自分の名と亡くなった子の名が一枚の名刺に書いてあり、子のところに(五年生)と括弧で添えてあった。私は言葉にならず「それは、どうも……」と口ごもったが、何か言わねばと思った。

     *

 「静岡からきました。次の東海地震に備えて歴史津波がどこまできたか調べています。神社が水に浸(つ)かったかどうかの古記録が手掛かりになるので、今回の震災で南三陸町の神社がどうなったか聞いて歩いています。神社の手前でギリギリ津波が止まった所が多い気がしますが」すると、その父親は訥々(とつとつ)と言った。「このあたりで津波で流された神社は三つだけと聞いてます」

 事実そうだった。荒沢神社はこのあたりで最古の海辺の神社だが御神体の手前で津波がぴたっと止まった。ちょうど貞観津波(869年)の頃につくられ慶長三陸津波(1611年)もくぐりぬけている。今回の津波で「鳥居(標高12メートル)はほぼ水没。鳥居脇の神官宅(同14メートル)も床上1・5メートルまで浸水し、本殿(同14・5メートル)も床上1メートルまで水がきたが、台上の御神体は濡(ぬ)れなかった」(同社の遠藤芳男さん)。16メートルの津波であったことがわかる。

     *

 津波常襲地の古い神社は幾度も津波に襲われ、建つべき位置を学習した結果、そこにある。近くの上山(かみのやま)八幡宮の女性の禰宜(ねぎ)・工藤真弓さんが教えてくれた。「私の実家、上山八幡宮は元は防災庁舎の近くにありました。しかしチリ地震津波(1960年)で被害をうけ今の高台に移転したのです。それで今回は助かりました」

 上山八幡宮は移転を繰り返している。はじめはもっと高台にあったが1800年ごろに、防災庁舎の近くにうつされた。遠藤未希さんが最後まで避難を呼び掛けて亡くなり町長らが屋上の鉄塔手すりにしがみついて助かった、3階建てのあの建物の横だ。そこは標高1メートルに満たない土地。しかも地名は「塩入」だ。江戸時代、津波高潮の被害を塩入とよんだ。津波被害が繰り返される場所が塩入もしくは塩入田とよばれているのを何カ所もみた。塩入という地名のついた場所に防災庁舎を建ててはいけなかったのである。

 チリ地震津波のとき塩入にあった上山八幡宮は、4メートル近い津波の直撃をうけ拝殿と社務所に浸水。境内の樹木はみな枯れた。のちの高潮被害もあり標高19メートルの高台に移転。今回、事なきを得た。「神社の石段を登った鳥居まで津波がきた神社が多かった。うちもそうでした。昔の人は津波の到達点を鳥居で示したのかと神職仲間は言っています」(工藤さん)。これは津波の時、高台の古社に逃げこめば助かりやすいことを示している。事実、南三陸の戸倉小学校は津波で20メートルも浸水したが教員らが近所の五十鈴神社に児童を誘導。津波のなか神社の境内だけがポッカリと島のように浮かび、助かった。

 大川小学校遺族の男性は私の目をみて言った。「歴史を知るのが何より大切です」。彼の黒いかばんのなかに歴史津波の専門書がぎっしりと詰まっていたのが忘れられない。