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「『反原発』で猿になる!」の吉本隆明氏死去2012/03/16 09:09

「『反原発』で猿になる!」の吉本隆明氏死去


<関連記事集>

大波小波 「反原発」で猿になる?
2012/01/12 東京新聞夕刊

 『週刊新潮』の一月五・十二日合併号に吉本隆明の二時間インタビュー「『反原発』で猿になる!」が載っている。現代の教祖ともいえる人の原発擁護論だが、専門家でない者が読んでもいろいろ疑問が残る。

 たとえば、「科学の成果を一度の事故で放棄していいのか」「自動車事故で亡くなる人が大勢いるが、だからといって車を無くしてしまえという話にはならない」、必要なのは「原発を止めてしまうことではなく、完璧に近いほどの放射線に対する防御策を改めて講じること」だという。

 しかし、原発事故は一度しか起こらなかったわけではないし、脱原発の主張は代替エネルギーの問題で、発電はこれからも必要なのだから、事故が起きたら車を無くすという比喩は完全な間違い。また、放射線に対する「完璧な防御策」はだれもが望んでいることだが、使用済み核燃料の再利用一つをとっても、実用化のめどがたっていない。

 加えて日本は世界でも有数の地震大国であり、原発事故と自然災害が複合して巨大災害になるおそれも指摘されているのである。

 『「反核」異論』から約三十年。吉本は自分の立場は変わらないと誇っているが、実際には新しい状況を捉える力を失っているのではないか。(深海魚)



815からの眼差し震災5ヵ月(3)詩人吉本隆明氏――科学に後戻りはない。
2011/08/05 日本経済新聞 朝刊

原発 完璧な安全装置を

 詩人で批評家の吉本隆明氏(86)は戦時中、軍国主義少年だった。その体験を自らに問い、戦後、独自の思想体系を築いた。戦後思想の巨人に、今回の震災体験を聞いた。



 ――3月11日は、どうしていたか。

 「自宅のこの部屋で書き物をしていたと思う。足腰が不自由で、自宅周辺のことしか分からないが、地震の後は、不気味なほど、静かだった」

 ――戦中と比べると。

 「あのころの東京は、人々も町中の印象も、どこか明るくて単純だった。戦争で気分が高揚していたせいもあったろうが、空襲で町がやられた後でも、皆が慌ただしく動き回っていた。

 今度の震災の後は、何か暗くて、このまま沈没して無くなってしまうんではないか、という気がした。元気もないし、もう、やりようがないよ、という人が黙々と歩いている感じです。東北の沿岸の被害や原子力発電所の事故の影響も合わせれば、打撃から回復するのは、容易ではない」

 ――復興への道は。

 「労働力、技術力をうまく組織化することが鍵を握る。規模の拡大だけを追求せず、小さな形で緻密に組織化された産業の復興をめざすべきだ。疲れずに能率よく働くシステムをどうつくっていくか、が問われるだろう。

 それには、技術力のある中小企業を大企業がしっかり取り込む必要がある。外注して使い捨てるのではなく、組織内で生かす知恵が問われている。この震災を、発想転換のまたとない機会ととらえれば、希望はある」

 ――事故によって原発廃絶論がでているが。

 「原発をやめる、という選択は考えられない。原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬い物質を透過する放射線を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまった、という点にある。燃料としては桁違いにコストが安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。

 だから危険な場所まで科学を発達させたことを人類の知恵が生み出した原罪と考えて、科学者と現場スタッフの知恵を集め、お金をかけて完璧な防御装置をつくる以外に方法はない。今回のように危険性を知らせない、とか安全面で不注意があるというのは論外です」

 ――明るさは戻るか。

 「全体状況が暗くても、それと自分を分けて考えることも必要だ。僕も自分なりに満足できるものを書くとか、飼い猫に好かれるといった小さな満足感で、押し寄せる絶望感をやり過ごしている。公の問題に押しつぶされず、それぞれが関わる身近なものを、一番大切に生きることだろう」

 よしもと・たかあき 1924年東京生まれ。東京工大電気化学科卒。著書に「言語にとって美とはなにか」「共同幻想論」「最後の親鸞」「家族のゆくえ」、詩集「転位のための十篇」など。



特集ワイド:巨大地震の衝撃・日本よ! 文芸評論家・吉本隆明さん
2011/05/27 毎日新聞 夕刊

 <この国はどこへ行こうとしているのか>

 ◇科学技術に退歩はない--文芸評論家・吉本隆明さん(86)

 雨がポツリポツリと降るなか、路地奥の行き止まりに自宅はあった。案内されて和室で座布団に座ると、隣には白い猫が1匹。吉本さんは四つんばいで現れた。糖尿病や前立腺肥大、足腰の衰えなどで、体が不自由な状態にある。日本の言論界を長年リードした「戦後最大の思想家」は、そのまま頭が床につくくらい丁寧なお辞儀をした。白内障の目はこちらをまっすぐ見つめていた。

 東日本大震災の取材で歩いた現場を「焼け野原にも似た光景でした」と伝えると、聞こえにくくなったという耳に神経を集中させていた吉本さんは静かに語り出した。「おっしゃったような光景から東京大空襲を思い出します。友達を捜すために焼け野原を歩きました。煙に目をやられた人々がトボトボ歩き、周囲には遺体が転がっているだけでどうにもならない。逃げた方向によって全滅に近い地区もあったと思います」。何かを訴えるように両手を動かす。

 東京・月島生まれの詩人であり、文芸評論家。政治、経済、宗教、哲学、カルチャー……あらゆる分野にわたり、出した本は300冊以上。1960~70年代には多くの若者の支持を集め、今も言論界で活躍する。「知の巨人」とも呼ばれる。

 吉本さんは大震災について「僕は現場まで行くことができない。戦争では戦闘の近くまで出かけていき実感しているけれど、今回は距離の隔たりがある。避難民がもっとごった返している場面を想像していたんだが、ポツンポツンとして静かな感じがする……」。

 ふと、04年に出版された吉本さんの著書「人生とは何か」の一節を思い出した。

 <(体は)ボロボロの状態です。「老いる」ことと「衰える」ことは意味が違いますが、こんな状況になったときには、死にたくなっちゃうんですよ。年を取って、精神状態がある軌道に入ると、なかなか抜け出せないのです。僕は死のうとか、自殺しようとまではいきませんでしたが、「これは生きている意味がないんじゃないか」ということは、ものすごく考えましたね。(略)結局は、その状態を自分自身で承認するほかないのです……>

 まずは現実を受け入れ、そこから始めるしかない。今の東北の被災者に似ている、と思った。

 吉本さんは1982年、文学者らによる反核運動を批判する「『反核』異論」も出版している。その中で核エネルギーについてこう記した。<その「本質」は自然の解明が、分子・原子(エネルギイ源についていえば石油・石炭)次元から一次元ちがったところへ進展したことを意味する。この「本質」は政治や倫理の党派とも、体制・反体制とも無関係な自然の「本質」に属している。(略)自然科学的な「本質」からいえば、科学が「核」エネルギイを解放したということは、即自的に「核」エネルギイの統御(可能性)を獲得したと同義である>

 東京工業大出身の「知の巨人」には、科学技術に対する信頼が底流にあるようだ。「原子力は核分裂の時、莫大(ばくだい)なエネルギーを放出する。原理は実に簡単で、問題点はいかに放射性物質を遮断するかに尽きる。ただ今回は放射性物質を防ぐ装置が、私に言わせれば最小限しかなかった。防御装置は本来、原発装置と同じくらい金をかけて、多様で完全なものにしないといけない。原子炉が緻密で高度になれば、同じレベルの防御装置が必要で、防御装置を発達させないといけない」

 目線はぶれることなく、記者を向いている。こちらは専門的な内容を頭の中で必死に整理し、質問する。

 「福島の土地に多くの放射性物質が降り注ぎました。2万人以上もの人々が住んでいた場所から避難していますが」と問うと、吉本さんは「ひどい事故で、もう核エネルギーはダメだという考えは広がるかもしれない。専門ではない人が怒るのもごもっともだが……」と理解を示しつつも、ゆっくり続けた。「動物にない人間だけの特性は前へ前へと発達すること。技術や頭脳は高度になることはあっても、元に戻ったり、退歩することはあり得ない。原発をやめてしまえば新たな核技術もその成果も何もなくなってしまう。今のところ、事故を防ぐ技術を発達させるしかないと思います」

 吉本さんの考えは30年前と変わっていない。「『反核』異論」にはこんな記述がある。<知識や科学技術っていうものは元に戻すっていうことはできませんからね。どんなに退廃的であろうが否定はできないんですよ。だからそれ以上のものを作るとか、考え出すことしか超える道はないはずです>

 話し始めて1時間半、卓上の緑茶をすすると、ぬるかった。家の人が熱いお茶をいれ直してくれた。吉本さんは手ぶりがつい大きくなり、湯のみをひっくり返した。記者がティッシュで机をふいた。

 「人間が自分の肉体よりもはるかに小さいもの(原子)を動力に使うことを余儀なくされてしまったといいましょうか。歴史はそう発達してしまった。時代には科学的な能力がある人、支配力がある人たちが考えた結果が多く作用している。そういう時代になったことについて、私は倫理的な善悪の理屈はつけない。核燃料が肉体には危険なことを承知で、少量でも大きなエネルギーを得られるようになった。一方、否定的な人にとっては、人間の生存を第一に考えれば、肉体を通過し健康被害を与える核燃料を使うことが、すでに人間性を逸脱しているということでしょう」

 いつの間にかいなくなっていた白い猫が、再び部屋に入って座布団に寝転んだ。吉本さんは気づいていないかのように続けた。「人類の歴史上、人間が一つの誤りもなく何かをしてきたことはない。さきの戦争ではたくさんの人が死んだ。人間がそんなに利口だと思っていないが、歴史を見る限り、愚かしさの限度を持ち、その限度を防止できる方法を編み出している。今回も同じだと思う」

 気づくと2時間半が過ぎていた。吉本さんは疲れるどころかますますさえている。自らの思想を「伝えたい」という思いのみが衰えた体を突き動かしているのだと感じた。

 「ただ」と続けた。「人間個々の固有体験もそれぞれ違っている。原発推進か反対か、最終的には多数決になるかもしれない。僕が今まで体験したこともない部分があるわけで、判断できない部分も残っています」

 話を終えると吉本さんは玄関口まで送り出してくれた。言葉だけではなく「全身思想家」に思えた。【宍戸護】

 ■人物略歴

 ◇よしもと・たかあき
 1924年東京生まれ。東京工大卒業後、詩人・文芸評論家として活動。代表作に「言語にとって美とはなにか」「共同幻想論」など。



【日本よ】石原慎太郎 原発に関するセンチメントの愚
2012/02/06 産経新聞 東京朝刊

 人間はさまざまな内的な衝動によって行動を起こす。内的な衝動には高尚な理念理想もあり、友情、忠誠、責任等々世俗な義理もあり、オウム真理教の信徒たちを駆り立てた信仰に根差した狂気まである。

 これは他の動物たちにはあり得ぬことで、動物のとる行動は飢餓や恐怖、あるいは自衛の本能に駆られたもので人間のような理念を踏まえてのさまざまな行動などはありえない。しかしそれをもって人間の動物としての優位を誇る訳にはいきそうもない。

 人間の理念理想なるものが価値あるものとして許容される範囲には当然限りがある。オウム信者の狂気は社会的には理念としてとても許容され得ないし、キリスト教での魔女狩りなども同断だろう。それらが表出しての行為は理性をはみだし奇矯で独善排他的で時には有害でもある。しかしなお当事者たちはそれがある種の理念に依(よ)るものゆえに、理の通ったものと確信してやまない。この種の逸脱は大小こと欠かないが、それが淘汰されない訳は、それらの逸脱が人間だけに共通な情念(センチメント)に依るものだからに他ならない。

 そしてこのセンチメントほど実は厄介なものはない。それは理性をも超えて優に人間を左右してしまう。その最たる現象は恋愛で、一旦誰かに強く惚れてしまうとある場合には見境がつかなくなる。あんな相手と一緒になったら酷い目にあうぞとはたがいくら忠告しても、ある場合には聞く耳持たずに突き進み人生の破綻をも招いてしまう。

 この世で恋愛は茶飯のことだから周囲はそれを常識の枠で捉え眺めて過ごそうとするが、ある人間にとってはそのセンチメントは枠からはみだして当人自身にも抑制がきかなくなってくる。以前九州で起こった殺人事件は男が恋人当人ではなしに、その祖母と母親を殺してしまう異常なものだったが、男のしつこいストーカー行為を取り締まるよう再三依頼された警察の不手際で発生したと指弾されていたが、ことがそうした軽犯罪を取り締まる生活安全課から刑事課に移されたことが引き金になり悲劇の到来となった節がある。刑事の専門家からすれば市井のたかが恋愛沙汰にいちいちかまっていられるか、他に深刻な犯罪容疑や未解決の事件もあるのに、ということで捜査の優先順位はむしろ前の担当部門よりも低いものにならざるを得なかったに違いない。そのことで警察を非難するのは容易だが、警察というあくまで常識を基準に職務を遂行する立場からすれば、恋愛に破れて罪を犯す者の衝動のセンチメントについてまで計量するのは埒外(らちがい)のことに違いない。

                   ◇

 長々した前節を構えて私がいいたいことは、福島の原発事故以来かまびすしい原発廃止論の論拠なるものの多くの部分が放射線への恐怖というセンチメントに発していることの危うさだ。恐怖は何よりも強いセンチメントだろうが、しかしそれに駆られて文明を支える要因の原発を否定してしまうのは軽率を超えて危険な話だ。軽量の放射能に長期に晒(さら)される経験は人類にとって未曽有のものだけに、かつての原爆被爆のトラウマを背負って倍加される恐怖は頷けるが、しかしこうした際にこそ人間として備えた理性でものごとを判断する必要があろうに。理性的判断とはものごとを複合的に捉えてということだ。

 ある期間を想定しその間我々がいかなる生活水準を求めるのか、それを保証するエネルギーを複合的にいかに担保するのかを斟酌計量もせずに、平和の内での豊穣な生活を求めながら、かつての原爆体験を背に原子力そのものを否定することがさながらある種の理念を実現するようなセンチメンタルな錯覚は結果として己の首を絞めることにもなりかねない。

 人間の進化進歩は他の動物は及ばない人間のみによるさまざまな技術の開発改良によってもたらされた。その過程で失敗もありその超克があった。それは文明の原理で原子力もそれを証すものだ。そもそも太陽系宇宙にあっては地球を含む生命体は太陽の与える放射線によっても育まれてきたのだ。それを人為的に活用する術を人間は編み出してきた。その成果を一度の事故で否定し放棄していいのか、そうした行為は「人間が進歩することによって文明を築いてきたという近代の考え方を否定するものだ。人間が猿に戻ると言うこと-」と吉本隆明氏も指摘している。

 人間だけが持つ英知の所産である原子力の活用を一度の事故で否定するのは、一見理念的なことに見えるが実はひ弱なセンチメントに駆られた野蛮な行為でしかありはしない。

 日本と並んで原子力の活用で他に抜きんじているフランスと比べれば、世界最大の火山脈の上にあるというどの国に比べてももろく危険な日本の国土の地勢学的条件を斟酌せずにことを進めてきた原発当事者たちの杜撰(ずさん)さこそが欠陥であって、それをもって原子力そのものを否定してしまうのは無知に近い野蛮なものでしかありはしない。

 豊かな生活を支えるエネルギー量に関する確たる計量も代案もなしに、人知の所産を頭から否定してかかる姿勢は社会全体にとって危険なものでしかない。


<画像引用>

吉本隆明氏が死去 戦後思想に大きな影響
http://www.47news.jp/CN/201203/CN2012031601000920.html

コメント

_ YS ― 2012/03/16 09:53

猿に反発してキィーキィー騒ぐから、
余計猿に見えちゃうのよね。

_ 阿羅漢老人  船木裕 ― 2012/03/21 21:50

 「反原発」で猿になる ! (吉本隆明)を読んで 2012.3.15

「週刊新潮」2012.1.5-12のインタヴュー記事を読んで唖然とした。かつて、吉本隆明を自立の思想家として高く評価して、「試行」にも投稿した一人として(もう三十年以上も前になるだろうか)、なんともやりきれない気持ちになった。
 ここで開陳されている言い分はほとんど反駁するのも馬鹿ばかしい底のものだ。「考えてもみてください。自動車だって事故でなくなる人が大勢いますが、だからといって車を無くしてしまえという話にはならないでしょう」だって ! こんな子供だましの理屈が通用すると思っているのか。また、核分裂による原子力発電と放射能によるレントゲン写真技術を並べて安全性を論じるなんて詭弁そのものだ。
 吉本は科学技術の進歩への素朴な信仰にしがみついているに過ぎない。スリーマイル島・チェルノブイリ・福島という一連の大事故が当時の原発技術の先進国(米国、ソ連、日本)で起っていることを深刻に受け止める必要がある。しかも、これらはほんの四十年足らずの間に引き起こされたではないか。現在でも中小の原子炉事故は頻繁に報告されている。原発をめぐる議論の中心にある「恐怖感」について云々しているが、目下大衆の間に広まっている過度の放射線への恐れは、昨年の福島原子炉の深刻なメルトダウン(炉心溶融)事故による膨大な放射能の拡散と広範な自然破壊・人体汚染という「歴然たる現実の脅威」のもたらした結果であることに目を塞いでいる。激しい爆発による発電所の災害の惨状は一連の写真で記録されているではないか。どこに目をつけているのだ。吉本は未曽有の惨禍から何も学んでいない。「福島」原発の大惨事なぞまるでなかったかのようだ。
 このインタヴューには、現実の脅威や惨状を直視する姿勢がいちじるしく欠落している。こうした現実感覚の鈍さは終始一貫しており、まさに恐るべきものだ。
事故を起こした発電所の中に現在も放置されたままの、大量の危険な使用済み核燃料はどこに運ぶのか、科学的にどう処理するのかといった、当面の技術的な方法や処置についても、ほとんど考慮する気配さえない。
 その代わりに、人類史的な観点からの原子科学の素晴らしさと優位性への賛美が繰り返されるばかり。「人類が積み上げてきた科学の成果を一度の事故で放棄していいのか」というわけだ。名にし負う理科系詩人吉本隆明、お得意の「原理的」な考察とやらである。こんな居丈高なご託宣に惑わされてはならない。むしろ、ここに思想家、批評家としての知的誠実さへの欠如を指摘せざるを得ない。自分の知性が誰よりも優れているという驕りがある。批評家にとって不可欠の,自分を批判するという心構えが失われている。
 ここで、ある素粒子物理学者の文章を紹介しておこう。「核融合炉の誘致は危険で無駄」(小柴昌俊)「朝日新聞「論壇」2001.1,18」これは「物理学を学んできた」立場からの「核融合」(「二十一世紀の夢のエネルギー源」 ! )についての意見である。原子力や放射能に関心ある方はぜひとも一読されたい。ここには吉本にはない、知的誠実さがある。
最後に、原発論議の流れの中で、唐突に小林秀雄を担ぎだしたのには、あきれたというより、思わず笑ってしまった。自立の思想家はどこへいったのだ。虎の威を借りる狐さながらだ。思想家としてみずから墓穴を掘ったにひとしい。
 スリーマイル島・チェルノブイリ・福島の原発大事故から何一つ学ばぬ者はむしろ「猿にも劣る」というべきである。 
 3.11には「東日本大震災市民のつどい」(東京・日比谷公園)に参加した。「さよなら原発」のために、還暦の老骨に鞭打って、これからも静かな怒りを少しずつ燃やし続けたい。

            阿羅漢老人 船木裕

「後記」この一文を書いた直後,思いがけず、吉本隆明の訃報を知った。生前の吉本さんに見せたかった。

_ Y-SONODA ― 2012/03/23 07:41

阿羅漢老人  船木裕さんへ

正直カラスからすれば猿問答は羨ましいとしか言いようがない。
それでも双方思い込みは激しすぎとは思いますよ。

アトム信仰に放射能怖い怖い信仰。
それがどこまで本当なのかを今一度点検する勇気も必要ではないでしょうか。
福島に住む人たちのためにも。
カラスの方が余程優しいと思うんだけど。

_ KS ― 2012/03/23 21:44

新年のあいさつをし損ねてたら、
御不幸があったご様子。
お悔やみ申し上げます。


小柴先生は、アメリカ時代、米軍の軍属っだったような。
(分野的に当然と言えば当然か)
確か、将官待遇のグレードっだったと自著に書いてたと記憶。

_ Y-SONODA ― 2012/03/24 09:08

KSさんへ

ツイッターでもお見かけしなくなっていたので心配していました。
お仕事がお忙しくなってきたのでしょうか。

お悔やみの言葉、ありがとうございます。
それなりに覚悟はしていたものの実際にいなくなると寂しいもの。
四十九日も過ぎてぼんやりと思い悩む日々が続いています。

_ KS ― 2012/03/25 23:26

仕事といいますか、
ビジネスに結び付くかもしれない話を振られたんで、
ある研究に没頭中。

今、頭の中は数式でいっぱい。
こうなると、なかなか現実に帰ってこれない私。
車運転してたら知らない街についてたり(汗)


ホルムズ海峡だけは気にしてますが。

_ Y-SONODA ― 2012/03/26 07:16

KSさんへ

>ビジネスに結び付くかもしれない話を振られたんで、 ある研究に没頭中

いいことですね。ぜひぜひ頑張って下さい。
それでも運転中の事故だけは気を付けて下さいね。

こちらは本格的なシンクタンクを立ち上げようと大忙し。
大いに儲かったら資金援助お願いしますね(笑)

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