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日経・文化往来:歴史の古い神社ほど東日本大震災の津波被害から免れ、多くが津波浸水の境界に立っていた――。鎮守の森や屋敷森なども津波の破壊力を減衰させる効果が見られたという。2011/12/16 19:18

日経・文化往来:歴史の古い神社ほど東日本大震災の津波被害から免れ、多くが津波浸水の境界に立っていた――。鎮守の森や屋敷森なども津波の破壊力を減衰させる効果が見られたという。


<関連記事引用>

古い神社の多くは津波浸水の境界に(文化往来)
2011/12/16 日本経済新聞 朝刊 40ページ

 歴史の古い神社ほど東日本大震災の津波被害から免れ、多くが津波浸水の境界に立っていた――。「自然災害と復興」をテーマに宮城県神社庁で先月開かれた神社本庁主催「伝統文化セミナー」で報告された内容だ。町並み復興プラン作成では神社の存在を考慮すべきだとの意見も出て議論を呼んだ。

 津波工学の今村文彦東北大教授がパネリストとして参加、宮城県などで「貞観地震の堆積物を調査した結果、神社仏閣が緊急時のランドマークとして津波が浸水した境界に建立されている」と述べた。また復興プランの一環として、言い伝えや防災訓練の意味を持つ祭りを災害文化として継承していく意義も指摘した。

 環境評価調査などを行う海洋プランニング所属の熊谷航氏は、福島県南相馬市の神社を検証、古い神社は海岸から離れた安全な標高に立地、津波も浸入しづらい場所にあったと報告した。鎮守の森や屋敷森なども津波の破壊力を減衰させる効果が見られたという。

 神社本庁の調査も発表された。貞観地震から約60年後の延喜式に記載された古社は東日本大震災の被害が軽微だったことや、津波で大打撃を受けた石巻市にある零羊(ひつじ)崎神社のように、被災者の受け入れなど神社が救援活動の拠点として機能したことが指摘された。


<画像引用>

零羊崎神社 (牧山)
http://www.genbu.net/data/mutu/hituji_title.htm

コメント

_ 奔放な旅人 ― 2011/12/16 21:18

そう言えば私の住む街でも、今回の大津波被害の境界に当たる所に
数ヶ所は神社がある。
そう言う事だったんですね。

_ Y-SONODA ― 2011/12/17 08:32

奔放な旅人さんへ

>そう言えば私の住む街でも、今回の大津波被害の境界に当たる所に
数ヶ所は神社がある。

大津波を経験したからそこにあったのか。
大津波を想定してそこにしたのか。
それともたまたまそこにあったのか。
これって大いに気になりますよね。
先日保守系グループの勉強会で「地域再生、東北再生、日本再生の鍵は?」と問われ、
「鎮守の森を復活すべき」と答えた私。
その根拠になりそうな記事を見つけて喜んでおりました。

_ NPO法人日本樹木育成研究会 青山金典 ― 2012/03/05 09:12

東日本大震災の津波被害から免れた、鎮守の森などの木々の種を苗木まで育て、3,4年後に元の場所、周辺地域に植栽して緑の復興ということを考えています。例えば、種をたくさん収集してもらえれば、種から苗木に育てる作業場所は、九州の福岡にある研究畑で協力していただく計画です。2012年の秋ごろ鎮守の森、等の津波から生き残った樹木の種をたくさん(10万個程度)収集していただける森づくりのNPO法人、森林ボランティア団体さんのご意見、ご協力をお待ちしております。また、鎮守の森などの所有者の方々のご意見もお願いします。

_ Y-SONODA ― 2012/03/06 06:45

青山金典さんへ

>2012年の秋ごろ鎮守の森、等の津波から生き残った樹木の種をたくさん(10万個程度)収集していただける森づくりのNPO法人、森林ボランティア団体さんのご意見、ご協力をお待ちしております。

たくさんの協力が集まればいいですね。
サイトを紹介させていただきます。

NPO法人日本樹木育成研究会
http://www.jumoku.net/index.html

_ YS ― 2012/03/19 16:26

南相馬を見守る白狐:津波止めた稲荷神社の神使-200年の時を超えて
http://www.bloomberg.co.jp/news/123-M0URWX0YHQ0X01.html

3月19日(ブルームバーグ):大津波は人、車、家、飲食店、そして街もろとも飲み込み、勢いを増して海岸からおよそ1キロ離れた稲荷神社へ向かった。祭られている2頭の白狐の石像を押し倒すと、そこで途絶えた。その神社は生と死の境界線となった。福島県南相馬市原町区北萱浜(きたかいはま)の物語である。

2011年3月11日、2時46分、マグニチュード9.0の大地震発生。津波発生が警告された。「在宅していた人は外に出て海の様子をうかがっていたが、見たこともない黒いうねりが押し寄せると、着の身着のまま車に飛び乗り、津波の襲来と競争のように逃げる。半信半疑で海を見つめていた人は逃げ遅れ波にさらわれた」(5月22日付北萱浜地区の住人作成のメモより)。

あれから1年。北萱浜出身の林一重さん(67)は、色あせた赤い前掛けを巻いた白狐を撫でながら「なぜここから先が無事だったのか不思議だ」と語った。すぐ近くにある公園の鉄棒は折れ曲がり、3台のブランコは飴が溶けたように絡まり合っていた。しかし白狐を境に、その後に建つ社(やしろ)は無事で、周辺の木々や民家もそのままだ。林さんは「まさか白ギツネが守ってくれたのでは」と振り返る。

「奥相志」

北萱浜の伝承では、その稲荷神社の2頭の白狐は、江戸時代後期に起きた天保の大飢饉(1833-1839年)で亡くなった人々の魂を鎮め村の安寧を祈願するため、京都の伏見稲荷大社から連れてこられたという。また、南相馬市博物館によると、天保時代に北萱浜に「白狐が棲みついたので村人は『相学稲荷』と呼んで祭祀をした」と「奥相志」に記されている。

これらの伝承や古文書によれば、稲荷神社の白狐は約200年前から南相馬を見守っていたことになる。天保の大飢饉では洪水や冷害に襲われた東北地方の被害は甚大で、死者は推定20万-30万人に及んだ。時の相馬藩主は壊滅した村を立て直すため、周辺地域から人を連れてきてその後10年で復興させたという。

嘉永元年(1848年)の「北萱浜村新軒取立に関する諸古文書」には合わせて260人が越後、加賀、越前などから移り住んだという記録が残っている。遠藤八十吉(37)、妻ふよ(33)、長女なつ(12)、二女よう(11)、三女さく(5)の5人家族は越後から入植。他に50家族が外部から移住して来た。いまの北萱浜の祖先たちだ。

ピンク色のリボン

京都の伏見稲荷大社によれば、稲荷神は食物・農耕の神様で、白狐はその使者だという。同大社の広報担当者は北萱浜の白狐のルーツについてはあまりに昔のことで確認できないが、「東北地方では特に信仰が厚い。飢饉から逃れたいと思う人々のため、おそらく五穀豊穣を祈願して連れてこられたのだろう」と話した。

南相馬市では東日本大震災で1635世帯が損壊、896人が死亡。北萱浜では60世帯が全壊、死者は47人に上った。1年が経過し、同地区ではがれき処理もほとんど終わり何も残っていない。青い海、澄み渡った空、海岸近くでは白鳥が群れをなす。水平線と地平線が一直線につながるほどの広大な更地には所々、四角く囲った地面にピンク色のリボンが風でたなびく。端午の節句時には鯉のぼりが泳いでいた。そこは子供たちが亡くなった場所だ。

北萱浜の林さんの孫娘の千賀子さん(17)は津波で亡くなった。彼女の父親も父方の祖父母も飲み込まれた。林さんは亡くなった4人の親族が愛した南相馬を復興させなければと農地等復旧推進委員の代表役を引き受けた。平均年齢60歳の男たち30人は9月以降、毎日がれきや側溝の土砂の除去、草刈りなどの作業を続けている。しかし覇気がない。時折休んではタバコを吸う姿ばかりが目につく。

「われわれにもできる。再出発だ」

北萱浜に広がる100ヘクタールの土地を見渡し、林さんは「かなり広く途方に暮れる。みんな年老いている。原発が近く放射能が多く飛んでいて本当に復興できるのか。先が見えない」と不安げに言う。しかし「200年前にも同じ光景がここにあったかと思うと胸が熱くなる。先祖がゼロから土地を耕し、田んぼを作り、収穫できるようになった苦労。われわれにだってできるはずだ。再出発だ」と気を取り直す。

福島原子力発電所から25キロメートル圏内の南相馬。津波と原発事故の二重被害を受けた。多くの若い世代が家族を連れてこの土地を離れている。全人口は3月11日時点で4万3622人と一昨年前の7万1561人から4割減少した。除染作業、防災林や農地の造成、再生可能エネルギー基地や工業団地の設立など、億単位のカネと10年単位の時間がかかるだけに、復興の道程は果てしない。

ブルームバーグ・ニュースは入手した1848年の入植者リストに林さんの祖先を見つけた。当時43歳の林喜祖八(はやし・きそはち)。妻子と5人で加賀(石川県)から北萱浜に入り、天保の大飢饉で荒廃した村の復興に携わった。一重さんにそれを電話で告げると「喜祖八の名前が古文書に残っていたとは感激だ。子孫の自分が200年経った今、当時と同じ光景を目の当たりにし、復興という同じ試練に立ち向かっていると思うと感慨深い。勇気が沸いてくる。どんなに苦しくても復興をやりとげたい」と語った。

200年の時を超えて

津波発生当時、稲荷神社の白狐は津波になぎ倒され、石像を支えていた重い石の台は流された。後日その石台は回収され、石像は修復された。接着に使われたセメントがまだ目新しい。「おまえ、あの神社には本当に白ギツネがすんでいるよ」。村人の多くは幼いころ祖父母からそう言われて育ち、神社は人々の憩いの場所でもあった。

いまその場所に、津波で流された47人と避難所で死亡した6人の安らかな眠りを祈り慰霊碑を作る構想が浮上している。だが、年金生活者が多い北萱浜の人たちにとって100万円の設立費用の捻出は決して容易ではない。しかし、自分の命より大切な最愛の家族をなくし、生きることの意味を失いかけた遺族たちには誰かに「助けて」という言葉は見つからない。

南相馬の白狐たち。一頭は口をつぐみ、もう一頭は赤い口をわずかに開けている。「阿吽(あうん)」。長い歴史の中で、何も語ることなく人々の苦楽をただじっと包み込んできた。寄り添うように海を遠くに見つめる。復興の道のりは長くとてつもなく険しい。白ギツネは静かに見守る。これまでも、そしてこれからも。200年の時を超えて。

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