鳩山由紀夫前首相の「抑止力は方便」発言で今再び沖縄は「怒」「怒」「怒」…に染まるのか ― 2011/02/14 08:13

<関連記事引用>
鳩山由紀夫前首相の一問一答
http://www.47news.jp/CN/201102/CN2011021201000540.html
鳩山由紀夫前首相のインタビューの一問一答は次の通り。
―2009年衆院選の際に移設先は「最低でも県外」と発言した際の見通しは。
「民主党は沖縄ビジョンの中で、過重な基地負担を強いられている沖縄の現実を考えた時に、県民の苦しみを軽減するために党として『最低でも県外』と決めてきた。鳩山個人の考えで勝手に発言したというより党代表として党の基本的考えを大いなる期待感を持って申し上げた。見通しがあって発言したというより、しなければならないという使命感の中で申し上げた。しっかりと詰めがあったわけではない」
―当初、大きな問題になると考えていたのか。
「最終的に首相を辞する大きなテーマになるとは予測してなかった」
▽漏れた機密
―閣僚の発言はバラバラだった。
「岡田(克也)君は外相当時、マニフェスト(政権公約)に『県外』とまで書かなかったと話したが、民主党が圧倒的な国民の支持を得て政権を中心的につくらせてもらったのだから、党のビジョンはしっかり打ち出すべきだと思った。一致して行動していただきたいという思いはあった」
「北沢俊美防衛相は、政権交代後、どこまで防衛省の考え方を超えられるか、新しい発想を主張していくかということが本当はもっと勝負だった気がする」
―外務、防衛両省に新しい発想を受け入れない土壌があったのでは。
「本当に強くあった。私のようなアイデアは一笑に付されていたところはあるのではないか。本当は私と一緒に移設問題を考えるべき防衛省、外務省が、実は米国との間のベース(県内移設)を大事にしたかった。官邸に両省の幹部2人ずつを呼んで、このメンバーで戦って行くから情報の機密性を大事にしようと言った翌日に、そのことが新聞記事になった。極めて切ない思いになった。誰を信じて議論を進めればいいんだと」
「自民党(政権)時代に相当苦労して(県内移設という)一つの答えを出して、これ以上はないという思いがあり、徐々にそういう方向に持っていこうという意思が働いていたのではないか。彼らが米国と交渉すると、信頼するしかない。これ以外ない、これ以上は無理だとなった時に、その先を進めることはなかなかできなかった。自分自身の力量が問われた」
「防衛省も外務省も沖縄の米軍基地に対する存在の当然視があり、数十年の彼らの発想の中で、かなり凝り固まっている。動かそうとしたが、元に舞い戻ってしまう」
▽密使、候補はいた
―味方はいたのか。
「平野博文官房長官(当時)は(望みをかけた)徳之島をいろいろと模索してくれた。少なくとも1人はいた」
―密使を使う考えはあったのか。
「やりたい発想はあり、やってくれそうな方もいて検討はしたが、非常に難しかった」
―県内移設理由として在沖縄米海兵隊の抑止力は唐突感があった。
「徳之島も駄目で辺野古となった時、理屈付けをしなければならなかった。海兵隊自身が(沖縄に)存在することが戦争の抑止になると、直接そういうわけではないと思う。海兵隊が欠けると、(陸海空軍の)全てが連関している中で米軍自身が十分な機能を果たせないという意味で抑止力という話になる。それを方便と言われれば方便だが。広い意味での抑止力という言葉は使えるなと思った」
▽オバマからの手紙
―日米首脳会談での発言が物議を醸した。
「沖縄県民に理解されながら、米国にも合意してもらえる案が必ず作れるという気持ちは持っており、私という人間を信じてくれという意味で『トラスト・ミー』という言葉を使った。昨年7月にオバマ米大統領から手書きのレターが来て『あなたは自分の言葉に忠実だった』と書かれていた。日米関係が大変毀損(きそん)したと(メディアに)書かれたが、少なくとも7月の段階ではそうではない」
「残念ながら沖縄の皆さんに理解してもらえる案にはなっておらず申し訳なく思っている。政府と沖縄との信頼関係が大きく毀損したのは事実で本当に申し訳ない。大変残念だ」
―09年末までに一度、県内移設を決断したのではないか。
「トラスト・ミーという言葉まで使い、県外移設のめどが立たない現実があった。一方で(09年12月段階で)最終的に昨年5月28日に発表したもの(沖縄の負担軽減策)と同じようなものが既に取れていた。ここを前面に出し、沖縄の理解をいただき辺野古は仕方がないと感じた瞬間はなかったと言えばうそだ」
「しかし仲井真弘多沖縄県知事の意向などもうかがいながら、沖縄県民に対する裏切りで政治的に持たないと判断し決着時期を延期した」
▽幻の直接交渉
―決着時期を昨年5月とした理由は。
「米国として(09)年内の決着を期待しているものを1年は延ばせない、せいぜい半年という思いがあった。3月までは予算で動けない。社民党の党内事情もあった。普天間を争点にしたら7月の参院選を戦えない。ゴールデンウイークに米国に行き、(オバマ氏と)直接交渉しようと思っていたが、(政府案が)まとまっていなかった」
―昨年3月の韓国海軍哨戒艦沈没の影響は。
「現実に北朝鮮の脅威を感じた。ある意味で戦争行為。(移設先が)辺野古に舞い戻らざるを得なくなって来る時の現実の脅威が、てこみたいに働いてきた」
―「腹案」とは。
「徳之島に移設先を見いだしたかったので腹案という言い方をした。米軍も最後には、訓練の一部を移すことは検討できるということだったから、日米共同声明の中で『徳之島』という文言は生きている」
▽遠かった政治主導
―県内移設の最終判断は。
「徳之島をあきらめざるを得ないと結論を出した時。4月28日に(元衆院議員の)徳田虎雄氏と会い、(理解を得られず)完全に徳之島が閉ざされた」
「沖縄と日本政府と米国との3者が協議機関をつくり、政府原案を議論する舞台ができれば乗り切れると思った。5月に仲井真知事と2回目に会った時に、知事選まではできないと言われ、沖縄の理解を得るところまで行かなかったと基本的に観念した」
―今後の交渉は。
「普天間の移設先も固定化してはいけない。未来永劫(えいごう)、米国の基地として使わせるつもりで造ってはいけないという話は平野官房長官との間では認識していた。沖縄は納得していない。理解を得るためには日米合意には入っていないが、(基地としての使用に期限を設ける)暫定しかない(ようにする)とか、交渉のやり方はあってしかるべきだ」
「(沖縄から)ある程度の距離があっても(米軍が)ワンパッケージであれば、十分、抑止力という言葉で成り立つ」
―反省点は。
「相手は沖縄というより米国だった。最初から私自身が乗り込んでいかなきゃいけなかった。これしかあり得ないという押し込んでいく努力が必要だった。オバマ氏も今のままで落ち着かせるしか答えがないというぐらいに多分、(周囲から)インプットされている。日米双方が政治主導になっていなかった」
鳩山氏「抑止力は方便」本紙インタビュー
辺野古回帰 理屈付け
普天間移設 戦略の欠如 陳謝
2011年2月13日 09時15分(22時間30分前に更新)
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-02-13_14499/
【東京】鳩山由紀夫前首相は12日までに沖縄タイムス社のインタビューに応じ、米軍普天間飛行場の移設をめぐる政権時の取り組みや対米交渉の全容を語った。移設先を名護市辺野古と決めた理由に挙げた在沖海兵隊の抑止力について「辺野古に戻らざるを得ない苦しい中で理屈付けしなければならず、考えあぐねて『抑止力』という言葉を使った。方便と言われれば方便だった」と弁明し、抑止力論は「後付け」の説明だったことを明らかにした。
さらに「海兵隊自身に抑止力があるわけではない。(陸海空を含めた)四軍がそろって抑止力を持つ。そういう広い意味では(辺野古移設の理由に)使えるなと思った」と語った。前首相が抑止力を後付けとする理屈を挙げたことで、あらためて日米合意の是非に関して論議を呼びそうだ。
2009年12月上旬に現行案での決着を逡巡(しゅんじゅん)したと明かした上で、その時点でホテル・ホテル訓練水域の制限解除など、昨年5月の日米合意に盛り込まれた負担軽減策の骨格は米側から引き出せていたと指摘。「軽減策とのパッケージで辺野古に理解がもらえるか考えたが、政治的に持たないと判断し(移設先決定を)延期した」と述べた。
日米合意の直前には沖縄、日本政府、米国の三者による協議機関の設置構想を持ち、5月の2度目の来県時に仲井真弘多知事へ打診したと明かした。知事が「知事選前にそのようなことはできない」と話したため、構想を断念したという。
決着期限を10年5月としたのは7月の参院選の争点化を避けるためだったと明言。5月の大型連休に渡米しオバマ米大統領との直接交渉を検討していたとし、実現できなかったことを「後悔している」と振り返った。
09年の衆院選で「最低でも県外」と掲げたことについては「民主党の沖縄ビジョンに書かれていることを言った。順序立てた見通しがあったというより『しなければならない』という使命感だった」と述べ、戦略性が欠如していたことを認めた。結果的に実現できなかったことには「詰めの甘さがあった。申し訳なく思っている」と陳謝した。
県外の移設先として鹿児島県徳之島を模索し始めたのは09年内の決着を先送りした直後だったとし「地上部隊を沖縄に残してヘリ部隊だけを移すとなると距離的にギリギリと考えた」と説明。徳之島が自身の「腹案」だったと明かした。
[ことば]
抑止力 軍事・外交戦略上の用語として、一般的には、部隊や武器を保有して、いつでも報復できる構えを維持することで、相手国からの攻撃や侵略を未然に抑え込む能力のことを指す。鳩山前首相は米軍普天間飛行場の沖縄県外移設を断念した理由を「学べば学ぶにつけ、海兵隊のみならず沖縄の米軍が連携して抑止力を維持していると分かった」と説明していた。
「発言責任持って」県外執着も“人ごと” 鳩山氏「県民に申し訳ない」
2011年2月13日 (画像引用)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-173443-storytopic-3.html
【東京】米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設を決めて首相を辞任して以来、初めて沖縄の地元紙のインタビューを受けた鳩山由紀夫前首相。県民の期待を怒りに一転させた県内移設回帰の政治決断をした当時の内幕を淡々と語る一方で、今も「県外」にこだわりを見せる口ぶりはまるで「人ごと」。無責任な雰囲気を漂わせた。
インタビューでは「県外」への強い思いを語る一方、「残念ながら沖縄の皆さんに理解してもらえる案になっておらず申し訳なく思っている」と県民に陳謝した。
政権交代前の衆院選から「最低でも県外」と繰り返してきたことには「県民の期待感もそこに非常に集約されていたし、県民のことを考えればどうしてもやりたいという強い気持ちがあった」と沖縄県民を意識したように力を込めて語る。
日米合意以降ずっと物議を醸してきた「抑止力」。当時この言葉を耳にした県民の意外感や、裏切られたような印象があったことを問われると鳩山前首相は「そうでしょうなあ」と、質問を予測していたというように一呼吸置いてゆっくりと答えた。
時折、冗談も交えながら記者の質問に答える前首相。政権運営のさまざまな場面について「何か不幸があった気がする」「むしろ非常に勉強になった」などと当時の心境を振り返ったが、評論家が論評するようで、当事者意識を感じさせない口調だった。
ただ、辺野古移設の説明で来県した際に反対市民の抗議を車内から見ていた印象については「(最初の来県時は)皆さん喜んでいる感じで、(2回目の来県時は)また違う異なる印象を感じた。1度目は沿道から多くの人が手を振って歓迎する人もたくさんいた。2度目の時は反対が強かった。声を出さない人にもいろんな考え方があるのではと複雑な思いだった」と答えた。
<関連記事>
沖縄タイムス 「軽い」前首相に怒り 後悔するより日米合意見直しを
名護や宜野湾 市民ら責任指摘
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-02-13_14517/
普天間移設問題:“抑止力は方便“鳩山氏に不信再び 県内関係者「地元で声聞いて」
http://mainichi.jp/area/okinawa/news/20110213rky00m010005000c.html
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