本日夕方、西の空でお星さんが落ちていきました(4)10月1日17時30分撮影 ― 2010/10/02 01:14
本日夕方、西の空でお星さんが落ちていきました(5)10月1日17時31分撮影 ― 2010/10/02 01:21
<尖閣諸島沖衝突事件と戴秉国> ミスを重ねた岡田克也の責任問題大浮上!? ― 2010/10/02 12:18
数ある尖閣諸島沖衝突事件関連記事の中で私が一番注目したのはコレ。
いらだつ首相「超法規的措置は取れないのか」
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100925-OYT1T00154.htm
この記事のどこに注目したかは私のツイッターを覗いていた方ならご存知のはず。
赤線を引いていたのはこの一文。
~首相は「民主党には(中国で副首相級の)戴秉国(国務委員)と話せるやつもいない。だからこういうことになるんだ」とこぼした、と関係者は語る。~
以前から私の観察対象である戴秉国の名前が出てきたことでもう興奮。中国外交の事実上のトップにして、「東アジアの外交界に戴秉国あり」といわれた逸材。ようやく日本でも丹羽宇一郎駐中国大使を深夜に呼び出した人物として一躍有名になった。
「民主党には戴秉国と話せるやつもいない。だからこういうことになるんだ」
この発言は実に的を射ている。確かに民主党には戴秉国と話せるやつはいない。だからこそ、ここまで日中関係がこじれた。
もっと正確にいうと、民主党は中国共産党との間にまったく人脈がない。それどころか彼らは今まで作ろうともしてこなかった。学生運動で間接的に中国のお世話になった人が大勢いるはずなのに。
このままではいけないという焦りが昨年12月の民主党大訪中団や天皇陛下と習近平中国国家副主席の特例会見問題につながる。焦った張本人が小沢一郎。あくまでも小沢は選挙屋。それまで中国との強力なパイプなど持っていなかった。
中国とて同じこと。民主党に話せる相手がいない。それでも今回の事件で中国側から民主党に接触。戴秉国が電話をかけた相手は岡田克也幹事長(当時外相)。
なぜかこの電話が岡田につながらなかった。サンデー毎日は民主党関係者の発言をもとに「電話不通騒動」と書いている。その関係者の声を引用しておこう。
「実は、中国側の戴秉国・国務委員(副首相級)が丹羽氏を呼び出す前に、岡田氏側に電話していたのです。ところが電話が全然つながらない。激怒した戴秉国氏が丹羽氏を呼び出した、というのが真相のようです。事実であれば、外務省の信じられないミスです」
一方で週刊文春は中国側からの戴秉国との緊急電話会談申し入れを岡田側が辞退したと書いている。
戴秉国の電話をめぐる情報は各方面で飛び交っている。私の耳にも入ってきた。その情報から判断すると、岡田が戴秉国との緊急電話会談に応じなかったのはおそらく事実。
しかし、この情報は民主党内部からのリーク。何やらそこにまたまた民主党得意の内ゲバの気配も漂っているのでご用心。
いずれにせよ岡田に外交センスがないことは間違いない。今回のミスは起こるべくして起こった。そのきっかけは今年7月に遡ることができる。
7月2日に行われた記者会見で当時の岡田外相は外務省顧問の5人全員を1日付で退任させたと発表。5人とは林貞行、柳井俊二、野上義二、谷内正太郎の各元次官と加藤良三元駐米大使。
実は谷内正太郎こそが戴秉国と腹を割って話すことができる数少ない日本人だった。この二人はカラオケを披露し合うほどの仲。
戴秉国につながる谷内を退任させたのも岡田なら、戴秉国からの電話に応じなかったのも岡田。そして日中関係はこじれにこじれていく。
もうひとつ興味深い情報がある。冒頭で紹介した「民主党には(中国で副首相級の)戴秉国(国務委員)と話せるやつもいない。だからこういうことになるんだ」発言を読売は菅首相のものと報じているが、これはおそらく誤報。実際の発言の主は仙谷由人官房長官だったとの情報が届いている。
仙谷は岡田の決定的なミスを把握している。そのため、仙谷は岡田でこじれた日中関係を修復するために細野豪志前幹事長代理を訪中させた。細野が会談した相手は当然のことながら戴秉国。
細野は昨年12月の民主党大訪中団の事務総長を務めたことがあるものの、中国人脈はまだまだこれから。誰かが谷内正太郎に頼み込んで戴秉国との会談をセッティングしてもらったのだろう。小沢が関与したとは思えない。
さらにもうひとつ。「民主党には戴秉国と話せるやつもいない。だからこういうことになるんだ」ということは、「自民党には戴秉国と話せるやつがいる」ということを示唆したもの。
確かに大物・戴秉国とのパイプは野中広務から中川秀直や安倍晋三や加藤紘一らへと引き継がれてきた。そうなると当然自民党にも岡田のミスをめぐる詳細情報が届いているはず。
臨時国会での徹底追及がまもなく始まる。その行方に注目したい。
<関連記事引用>
民主・細野氏訪中、仙谷官房長官が要請 国務委員と会談
2010年10月2日8時30分
http://www.asahi.com/politics/update/1001/TKY201010010518.html
民主党の細野豪志前幹事長代理が中国・北京を訪問したのは、仙谷由人官房長官の要請に基づくものであることが分かった。細野氏は北京入りした先月29日夜、中国外交を統括する戴秉国(タイ・ピンクオ)・国務委員(副首相級)と会談していた。訪中にかかわった関係者が明らかにした。
細野氏は29日、北京市内の釣魚台迎賓館で中国外務省幹部と長時間にわたり会談。途中から戴秉国氏も加わった。閣僚級交流の停止などの中国側の対抗措置のほか、河北省石家荘市で起きた4邦人の拘束事件などが取り上げられ、関係改善に向けて意見交換したとみられる。
【花田紀凱の週刊誌ウォッチング】(279)
2010.9.25 08:29
http://sankei.jp.msn.com/culture/books/100925/bks1009250831004-n1.htm
尖閣問題、中国人の図々(ずうずう)しさには呆然(ぼうぜん)とするしかない。それもこれも、靖国参拝問題や竹島問題で、日本は圧力をかければ譲歩するという前例があるからだ。
『週刊文春』(9月30日号)が「中国衝突漁船は『スパイ船』だった!」と〈衝撃スクープ〉。
〈尖閣諸島周辺では、この数カ月間、中国の漁船の数は増加するばかりだった〉。その中に〈「スパイ船」が多数紛(まぎ)れ込んでいることを、日米の情報のプロたちは把握していた〉。
「スパイ船」だという主たる根拠は、丹羽宇一郎大使を呼びつけたのが戴秉国(たいへいこく)国務委員だったからだという。
戴秉国氏は〈人民解放軍の諜報機関「総参謀部2部」と一体化した「裏外交」の最高責任者〉。
だから事件が報道される前から頻繁に連絡を取り合っていた日米の情報のプロたち(海上自衛隊とアメリカ第7艦隊の情報部門)が、今回の事件は中国政府による「作戦」の可能性が高いと分析しているのだという。
〈ごく近い将来、尖閣諸島の実効支配の作戦を意思決定して、どこまでやれば日本はいかなる手段に訴えるか、その対抗措置を作成するため〉の「仕掛け」。〈さらなる強硬手段に中国が出やすい環境作り〉のために〈敢えて起訴させる選択肢を日本に選ばせ、緊張状態を意図的に作った〉。
『週刊新潮』(9月30日号)「『尖閣』『ガス田』『反日デモ』東シナ海浪高し」で東海大学の山田吉彦教授もこう言っている。
〈「衝突は、単なる偶然ではない(中略)。漁船の衝突はきっかけに過ぎず、東シナ海を実効支配することが中国の真の目的」〉
FACTA online : 日中「阿吽」の瞬間、黒衣は2人
2008年3月号 [手嶋龍一式INTELLIGENCE 第23回]
by 手嶋龍一(外交ジャーナリスト)
男の額にはうっすらと脂汗が浮かび上がっていた。だが、誰もそれに気づいていない。それほどに緊迫した会談だった。豪胆をもって鳴るこの男も、決裂の危機を孕んだ交渉に臨んで苦しんでいる――。たとえ折衝の相手が、額の汗に眼をとめたとしても、そう受け取っただろう。
じつは重いヘルペスを患っていたのである。北京の主治医が制するのを振り切って、成田行きの便に飛び乗っている。靖国参拝をめぐって日中関係が暗礁に乗り上げているさなかの会談である。並の交渉者なら、病に罹(かか)っていることを漏らして、わずかな譲歩でも引き出したいという誘惑に駆られたはずだ。だが男は眉ひとつ動かさず、日本側に何ひとつ気取らせなかった。
この人こそ「東アジアの外交界に戴秉国(たいへいこく)あり」といわれた逸材だった。中国外務省の筆頭次官にして、中国共産党の中央外事弁公室主任。その組み合わせは党内の序列が直属の上司である外相より上位にあることを意味していた。
「われわれ中国人は、時には武器を手にとって、また時には交渉のテーブルに座って戦ってきたのです」
米中両大国が密かな接近を試みていた1971年の夏、国務院総理の周恩来は、人民大会堂で筆者にこう語ったことがある。「米帝国主義」と糾弾していた宿敵ニクソンを迎え入れる釈明だったのだろう。「政治とは血を流さない戦争だ」と断じた毛沢東の持久戦論を援用しながらも苦しげに見えた。時代背景も国際政局も異なるが、戴秉国という外政家にとって、交渉とはやはり武器なき戦いなのだろう。
この人がいま、楊潔篪(ようけつち)外相を翔び超えて副総理に肩を並べる国務委員として中国外交の重責を担おうとしている。
*
明朗だが精悍な面構え、そして小柄な体躯は、戴秉国が対ベトナム国境に近い貴州省の出身であることを窺わせる。1941年、印江の土家(トウチヤ)族の生まれなのだ。この少数民族は酷暑を避けるため泥土の家に暮らしていたという。戴秉国は、四川大学を経て外交学院に進み、対ソ連・東欧外交を担当する外交官となる。ロシア・スクールは、中ソ蜜月の時代なら花形のポストだったが、彼が外交官となった60年代半ばには、ソ連は社会主義陣営の主導権を争う強敵となっていた。戴秉国という人は、試練に満ちた道を歩むよう運命づけられているのだろう。
モスクワの中国大使館に赴任した1969年、中ソの対決は、教義論争から武力衝突へと突き進んでいった。クレムリンはかつての盟友中国に核兵器で牙を剥(む)こうとしていたのである。キューバ危機に続く2度目の全面核戦争の危機が忍び寄っていた。ソ連軍の動きを察したニクソン政権のキッシンジャー補佐官は、「特別声明」を出して中ソ間に割って入り、核戦争はひとまず遠ざかった。文革期の中国がなぜ大胆な妥協をしてまで保守派のアメリカ大統領を北京に迎え入れたのか。戴秉国は極秘のインテリジェンスを知る数少ないひとりなのである。
それからちょうど20年の後、中国の外交指導部は、彼を社会主義陣営の柔らかい脇腹といわれたハンガリーに送り出している。東ドイツの人々が大挙してハンガリー・オーストリア国境に押し寄せ、鉄のカーテンが綻びかけていたからだ。東西冷戦に幕をおろしたベルリンの壁の崩壊に先立って、ハンガリーでは大乱へのうねりが兆していた。1989年夏のことだ。東欧に巻き起こった変革の嵐は、やがて中国の社会体制をも揺るがす――。ハンガリー大使への起用は、中国指導部の危機意識を映していたのである。
東欧のインテリジェンス・マスターとしての活躍は、戴秉国に対する銭其琛(せんきしん)外相の信頼を揺るぎないものにした。その後は一貫して中国外交の中枢を歩むこととなる。だが、戴秉国は「北京に永く住んでいるが、この街は嫌いだ。一日も早く貴州に帰って畑を耕して暮らしたい」と語っている。漢民族支配の官僚機構にあって、少数民族出身の外交官には鬱屈するものがあったのだろう。だが、こうした本人の想いとは裏腹に、活躍の舞台は東アジアにも広がっていった。
*
2005年「日中総合政策対話」が始まったのを機に、戴秉国は日中関係に深く関わるようになる。胡錦濤政権は、小泉内閣の退陣をにらんで対日関係の打開に動こうとしていた。だが、靖国参拝をめぐる両国の軋轢が前途に暗い影を落としていた。後継と目された安倍晋三も保守派に軸足を置いていたため「参拝せず」と約束できなかったからだ。
2006年9月23日から、新内閣の発足をにらんで、戴秉国を東京に迎えて開かれた「日中総合政策対話」。それは、安倍の訪中が実現するか、否かを賭けた折衝の舞台となった。だが4日間に及んだ協議では、結論を見出すことができなかった。中国側は「靖国参拝せず」という保証を求めたのだが、日本側は頑として応じなかったからだ。戴秉国はやむなく北京に引き揚げていった。
事務次官、谷内正太郎の自宅の電話が鳴ったのは、9月28日の午前2時だった。電話の主は王毅駐日大使。
「本国からの訓令で連絡申し上げました。いま一度話し合いたく思います。受けていただけますか」
何らかの進展があるならと畳みかける谷内に王毅はこう応じている。
「そう受け取っていただいて結構です。指導部の指示で戴秉国次官が直ちに北京を発つと申しております」
王毅の言葉どおり、日中の協議が極秘裏に開催されたのは28日の深夜10時だった。冒頭に記した会談はこのときのものだ。中国側は、新総理の訪中を歓迎するが、靖国参拝を行わないことを強く期待する。一方の日本側は「参拝せず」を訪中の条件にはできないが、中国側の要請は真摯に受け止める――というものだった。
だが日中双方が正式な文書を取り交わしたわけではない。すべては「阿吽(あうん)」の呼吸で決着が図られたのだった。かくして5年ぶりの日中首脳会談が実現し、総理の靖国参拝は以後行われていない。戴秉国と谷内正太郎の信頼の絆がここまで揺るぎないものでなければ、この難局を打開することはできなかったろう。
この間、アメリカのブッシュ政権は、戴秉国とは戦略対話を行ったのだが、谷内正太郎とは次官級の戦略対話に応じようとはしなかった。このためブッシュ政権は、日中間で交わされたひそやかなやりとりを辞を低くして戴秉国から聞き出さなければならなかった。対日戦略対話を拒んだ国務副長官ロバート・ゼーリックの傲慢は、アメリカのインテリジェンスに巨大な空白を生んでしまったのである。
<関連サイト>
戴秉国
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B4%E7%A7%89%E5%9B%BD
▼Dai Bingguo (画像引用)
http://en.wikipedia.org/wiki/Dai_Bingguo
Former U.S. Secretary of State Henry Kissinger has called Dai "an outstanding personality" and former U.S. National Security Advisor Zbigniew Brzezinski noted that he was "a superb individual".
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