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八百万の神々こそ民主主義の原点、民主主義の本質でもある2010/05/05 09:36



「八百万の神々こそ民主主義の原点、民主主義の本質でもある」

昨夜の飲み会で森野榮一先生の口から飛び出たこの言葉。私にとってこの日一番の収穫。

日本の民の底力を信じたい。日本の民主主義が今試されている。
そんな今こそ、WAになっておどろう。







<そんなことはここにちゃんと書かれておる=森野先生の解説>

第七講 村邑

一、八種の天罪

 日本人は農業の民で有つた、故に太古に於て最も罪悪視せられたるものは、農業を妨害することであつた、左記八種(やくさ)の天罪(あまつみ)といふものは、古事記にも日本書紀にも、延喜式の「大祓の詞」にも、古語拾遺にも、すべて古書といふ古書には必ず記して伝へられて居るのである。

 第一 毀畔(あなはち)(阿那波知)とは、耕田の畔(くろ)を毀つこと

 第二 溝埋(みぞうめ)(美曾宇女)とは、灌漑の溝を埋むること

 第三 放樋(ひはなち)(斐波那知)とは、溝洫(こうきょく)の樋を放開して、耕田に溢れしむること

 第四 重播(しきまき)(志伎麻伎)とは、他人の耕種せる田に、重ねて種を播くこと

 第五 串刺(くしさし)(久志作志)とは、他人の耕田を冒認して、自己の耕田の如くに標識すること

 第六 生剥(いきはぎ)とは、耕田に用ひる牛馬の類を虐待すること

 第七 逆剥(さかはぎ)[六に同じ]

 第八 屎戸(くそへ)とは、新穀の祝典たる新嘗の祭日を汚すこと

 此八種の天つ罪が、日本人の最も初めに罪として認めたもので、後に仏教の感化に依りて高唱せられたる殺生、愉盗、妄語、邪淫、飲酒の五戒よりも、深く厳しく戒飭せられた所のものであつた。

 古神話に驚天の大変として伝へられたる、天照大神の「岩戸隠れ」は、素盞嗚尊が此の八種の天つ罪を、悉くその一身に犯したることが原因で有つたといふことである。而して当時日本の政体は、八百萬神の合議を用ひたので有つた。謂ゆる「八百萬神、天安之河原(あめやすのかわら)に神集(かんずまりましま)して」といふは、是れである。

 是れは誠に自然である。人の生命、自由、財産、名誉に対する福利は、奴隷の境遇にあるものゝ外、其人の得心なくして、他より侵さるべき者でない。人は固より群居するものであるから、共存の必要上、個人と個人との関係、並に集団と集団との関係に依り、規律ある行動に出るのであるが、是れは各人の福利を犠牲にするのでなく、その福利を保護するのである。各人の発言権を停止するのでなく、その発言権を障碍なからしめるのである。日本国民の総員、即ち八百萬の神には、貧の神も福の神も、凡べて、平等の発言権を以て「天安の河原」に集まつたといふ神話は、純朴なる日本の古俗を想像せば、如何にも斯くありしならんと首肯せらるるのである。

 農業的の国民(八百萬神)が、農業侵害者(素盞嗚尊)に対する処置を決するために集会を開いた。是れは恰も自治の運用である、自治を推し広めた協和制、一層適切にいへば国民投票であつた。

 我が神世の洪謨(こうも)は、全く此の如き自然の民性に忓(さから)はざる方針であつた神武天皇東征の詔に「蒙以て正を養ふ」とあるのはそれである。此の詔の語は、周易蒙卦(しゅうえきもうけい)の衆伝を引いて、日本書紀の作者たる舎人親王(とねりしんのう)の文飾せられたものではあるが、其意味は正しき神武天皇の詔旨で有つたに相違ないのである。蒙以て正を養ふとは、蒙は童蒙である、民性自然の発達を以て、童蒙の次第に智恵づくに譬へ、其の啓発すべき時機には之を啓発し、其時機に至らざれば其儘に差し置き、たゞ成るべく邪悪に陥らぬ様に、成るべく正しき心を養ふやうに、之を指導して行くといふことを云ふのである。此詔を以て、我が太古の皇謨を察すれば、決して或国の王者の如く、国民を以て私有財産と同視し、生殺与奪たゞ王者の意欲に任ずるといふのではない。国民自体の機能をして、成るべく智恵と徳義の方面に進ましむべく、無干渉の間に静かに摂理せられたのである。

 けれども人民は、智巧の進むに従つて、太古の純撲をいつまでも維持しては居らなかつた。既にして強者が弱者を併呑して、其福利を榹(うば)ひ去つたのである。是れ其詔の末文に「邑に君あり、村に長あり、各自ら彊を分ち用て相凌轢す」とある所以である。天皇には深く之を歎息せられて、竟に東征の御決行となつた。

(出典:権藤成卿『農村自救論』公同の概念)