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今話題の小熊英二氏の「1968」をまずは書評から読む2009/08/27 09:49

小熊英二 1968 〈ichi-kew-roku-hachi〉


上下巻あわせてなんと14280円。高い、高すぎる。
それでも買うべきか、やはり借りるべきか、それとも書評だけで読んだ気になるべきか・・・。
あなたはどうする?!


<書評引用>

▼「1968 上下」小熊英二著 「学生反乱」敗北の全体像
http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20090803bk01.htm

 上下二千頁(ページ)を超える大著の重さが主題(「一九六八年」の学生反乱)の重さを語りかけてくる。上巻の表紙は、ためらいがちにヘルメットの紐(ひも)をしめようとする長い髪の女子学生の写真である。この女子学生は、ヘルメットが機動隊よりもさきに内ゲバから身を守るものであることを知っているのだろうか。

 彼女の心象風景と重ね合わせるかのように、著者は冒頭で別の女子学生の言葉を引用する。「(活動家の話を聞いて)感動しました。とてもすばらしいです。でも私には何もないの。それでは闘ってはいけないのでしょうか?」。本書はこの言葉で始まり、この言葉の再引用で終わる。

 学生反乱はなぜ起きたのか。貧しくても正しい戦後民主主義の時代から豊かではあっても偽りに満ちた高度経済成長の時代へ、この急角度な変動の過程で、社会に大きな断層が生じる。パンドラの箱を開けたかのように、亀裂から空虚感、閉塞(へいそく)感などの「現代的不幸」が飛び出してくる。

 本書は、この「現代的不幸」に直面した若者たちの思想と行動の軌跡をたどりながら、「一九六八年」の学生反乱の全体像を明らかにしようとするものである。

 上巻は希望の書である。学生反乱は出発地点において改革志向だった。前近代的な大学経営を批判し、「教授・職員・学生三者」でカリキュラム改革に取り組む。学生たちの要求は正当なものだった。要求の実現に向けて、彼らはバリケードを築く。バリケードのなかの「コンミューン」は明るく解放的で、規律とモラルが確立していた。

 彼らの要求は、実現困難なものへとエスカレートする。運動も孤立していく。学生反乱が失敗に終わったのは、国家権力の介入よりも、党派間の主導権争いや「一般学生」、市民との連帯が乏しかったからである。学生反乱は、社会(少なくとも大学)を変えることができたはずだ。その機会をみすみす逃したことが悔やまれる。

 下巻は絶望の書である。希望から絶望へ、そこには「一九七〇年のパラダイム転換」があったという。この年を境に学生反乱は変質した。戦後民主主義と近代合理主義を批判し、戦争責任を追及する「自己否定」のための社会運動から離脱者が続出する。

 一切の支持を失った運動の末路に同情の余地はない。連合赤軍事件について、従来の解釈過剰を批判し、厳密な事実確定作業を経たうえで、著者は、非合法集団の幹部たちが下部メンバーの逃亡を恐れて殺害した「小事件」だったと断言する。これが事件の真相だったにちがいない。

 二千頁を読み終えても、その場を立ち去りがたかった。敗北が無念だったからだけではない。冒頭の女子学生の疑問にどう答えるべきか、考えあぐねて、確信が持てなかったからである。

 東大安田講堂の攻防戦で、学生を逮捕したある機動隊員が「ホントはこんなことやりたくないんだ」とかばった。六〇年代末の新宿「街頭闘争」で、瀕死(ひんし)の機動隊員のうえに一人の女子学生が全身でかぶさって救った。このような挿話のなかに、わずかではあっても可能性を見出そうとするのは感傷に過ぎるだろうか。

 本書は、今日に続く「現代的不幸」を克服するための手がかりを与えてくれた。あとは彼らの失敗をどう活(い)かすべきか、私たちが考える番である。

 ◇おぐま・えいじ=1962年、東京生まれ。慶応義塾大学教授。『単一民族神話の起源』でサントリー学芸賞、『〈民主〉と〈愛国〉』で毎日出版文化賞、大佛次郎論壇賞。

評・井上寿一(いのうえ・としかず) 1956年、東京生まれ。学習院大学教授・日本政治外交史。著書に『吉田茂と昭和史』など。


▼今週の本棚:田中優子・評 『1968』上・下=小熊英二・著
(新曜社・各7140円)
http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2009/08/20090802ddm015070012000c.html

 ◇複数視点で振り返る「現代的不幸」

 本書は六〇年安保の背景から始まり、全共闘運動を中心にして、七〇年代の運動の終焉(しゅうえん)とウーマン・リブの動きを追って終わる、文献研究による壮大なドキュメントだ。

 本文だけで上巻九六七頁(ページ)、下巻八六六頁の大著である。さすがに「拾い読みしようか」と思った。しかし、抜かせなかった。面白いのだ。たちまち引き込まれ、目が離せなくなった。「中世の戦記物を聞く人々もこうだったのでは」と思った。自分が生きていた時代、関(かか)わった動きの全体像が語られるとき、人はこういう体験をするものだろうか。読みながら、絶えずその中に自分を探すのである。「このとき、私はこの位置にいてこう感じていた」「私からは見えなかったが、こういうことだったのか」等々、私はあのころの自分自身の位置を見極めようとしながら読んだ。本書は体験者個人の視点や感慨で書かれたわけではなく、厖大(ぼうだい)な証言や資料によって立体的に構成しているがゆえに、その立体構造の中に自分を置くことができるのである。

 引き込まれたもうひとつの理由は、その文体が、あたかも複数視点で書かれた活劇だからである。羽田、佐世保、三里塚、王子闘争、日大闘争、国際反戦デー、新宿騒乱事件、べ平連の成立と新宿西口フォーク・ゲリラの出現などは臨場感あふれ、その中に飛び込んだかのようだった。この臨場感は、ひとりの人間による体験告白では生み出せない。学生、機動隊、高校生、教員、市民運動家、サラリーマン、職人、商店主、フーテン、主婦など、証言の残っているあらゆる視点から描いた筆致が生み出したものである。

 むろんここには、著者の時代分析がある。繰り返し語られるのは、当時の若者たちが戦争、貧困、飢餓という「近代的不幸」とは異なる、アイデンティティの不安、生の実感の欠落などの「現代的不幸」に直面していた、という指摘である。戦後生まれの人間たちは戦後民主主義を教え込まれた。しかし社会の実態は受験競争であり、アメリカ追随とベトナムを踏み台にした高度成長であった。これは、戦後日本の理想と現実の乖離(かいり)という意味では若者だけの問題ではなかったはずだが、政治政党は経済成長と票の獲得だけを目標とし、企業も学校も同じ方向へ突進した。その結果、六〇年代は個人生活も都市や農村のありようも激変し、置き去りにされた問題が山積みになった。現代的不幸は、大人による政治だけでは解決できなかったのである。

 では全共闘運動が肯定されているか、というとそうではない。本書はセクトの分裂と行動について丹念に書く。なぜならセクトが全共闘運動という形に誘導したと同時に、その排他的体質による「内ゲバ」こそが、全共闘と大学を暗く彩り、数々の殺人による終焉に導いたからである。本書は一方で湧(わ)き上がるような全共闘運動の祝祭的側面を生き生きと描きながら、同時に、そこに必ずついてまわった「内ゲバ」の陰惨さを書く。さらに、現代的不幸が乗り越えられるどころかますます深刻になっている現実を挙げ、それは全共闘世代がそれを言語化する努力を怠り、戦後民主主義を学ぶことなく否定し、大衆消費社会に順応したからだ、と結論している。本書は、今の若者が同じ轍(てつ)を踏まないために書かれた本なのだ。しかし当時の若者であった人間も、改めて自分自身のこの四〇年間の生き方に、向き合うことになる。


▼反乱の背景に「現代的不幸」 「1968」の小熊英二氏
2009年8月25日
http://book.asahi.com/clip/TKY200908250136.html

 60年代末、日本列島を揺るがした若者の反乱とは何だったのか。小熊英二・慶応大教授(歴史社会学)が書き下ろした『1968』(新曜社)が、反響を呼んでいる。反乱の背景には当時の日本が直面していたアイデンティティー危機、心の問題ともいうべき「現代的不幸」の洗礼があったとする主張を、上下巻2千ページ超で展開した意図を聞いた。

 機動隊との対決の武勇伝、バリケードの中の青春という祝祭的側面が強調される一方、内ゲバや連合赤軍事件へと至る負のイメージが人々の脳裏に刻まれてきた「あの時代」。62年生まれの小熊さんが目指したのは、断片でなく全体像を、社会科学的手法によって解き明かすことだった。

 「天命ですね。誰もやらないから、仕方なく、と言うしかない。業みたいなものでした」。全共闘や新左翼セクトのビラから運動参加者の回顧録、当時の文化社会論まで。「一見つまらない」ものも含め、手に入る限りの資料を読み込んだ日々を振り返る。

 慶大、中大などの学費値上げ反対闘争や学内民主化要求から始まった日大闘争を経て、学生たちの反乱は「大学解体」「自己否定」のスローガンに象徴される東大闘争の理念先行的なスタイルを模倣し、全国に波及していく。背景として小熊さんが着目するのが、高度成長という社会の地殻変動だ。貧困や差別といったわかりやすい「近代的不幸」とは異なる次元で、不登校など、人々は新たに表れた「現代的不幸」を感じ取っていた。おまえはなんなのだ、どんなふうに生きればいいのだという、いわば自分探し。まったくなかった指摘ではないが、小熊さんは若者たちの反乱とは、こうした実存的問いが大きな社会変動の中で必然的に浮上した現象だった、とみる。

 それは一部の論者が唱えるような「世界革命」とは呼べないし、「文化革命」という見方も神話化されすぎだと、指摘する。若者たちが否定した戦後民主主義への知識は浅薄だとして、その「稚拙さ」を批判もする。著書は運動の「稚拙さ」の検証をしているとの読み方もできるが、「悪い意味で言っているわけではない」と小熊さん。「時代の大きな構造的変動があって、若者たちの『言葉がみつからない』内面をくみとる力を、既成左翼がもたなかった。結果的には、理念先行の東大闘争が学生の心を一番ひきつけたんだろうし、そういう形にならざるをえなかったと思う」

 ただ、それは具体的な目標を掲げた政治闘争から離れたがゆえに持続せず、展望をもたず、また二者択一の倫理主義を強めて一般の支持を失い、崩壊する。行き着いた先が連合赤軍事件だ。

 結論では、68年の運動の挑戦と敗北から学び、建設的に生かせと説く。あえて希望を意識した記述になったのは「『あの時代』のうみを濾過(ろか)してあげることが自分の役割と思ったから」。さらには現代の若者たちが向き合う苦悩と「あの時代」が、一つながりであることを近年、痛感するからという。

 「若い人たちが今回の本を『面白い』と言ってくれたのは、ありがたいなと思いましたね。イケイケドンドンの高度成長期だった彼らの反乱の時代とは違うけれども、くみとるべきものはきっとある」(藤生京子)


<画像引用>

小熊英二 1968 〈ichi-kew-roku-hachi〉
http://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/1968.htm


<アマゾン購入> (カスタマーレビューがなんだか醜い)

Amazon_co_jp 小熊英二
http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_ss?__mk_ja_JP=%83J%83%5E%83J%83i&url=search-alias%3Dstripbooks&field-keywords=%8F%AC%8CF%89p%93%F1

コメント

_ Blondy ― 2009/08/28 04:01

1968(6部構成)
www.youtube.com/watch?v=6vVZP2T60wI

_ Blondy ― 2009/08/28 04:41

そしてその前身として語られるSummer of Love 1967
http://www.youtube.com/watch?v=qI-Ji4gtBPM

_ Y-SONODA ― 2009/08/28 08:14

Blondyさんへ

「サイバーのりピー」も結構意味深?平成の「ええじゃないか」?
http://www.youtube.com/watch?v=fjB8qv_O1bA&feature=related

_ 府川充男 ― 2009/09/20 10:47

まともな日本語と英語が読める読者および社会学や歴史学の専門家の誰が見たってバッタ本以外の何物でもないではないですか(苦笑)。
http://www.tsukiji-type.co.jp/
から「築地電子活版」「図書外装設計」「2005-2009」とたどられれば,14ページにわたって該書が一刀両断にされている様を簡単にみることが出来ます。

_ at home ― 2009/12/04 00:53

>上下巻あわせてなんと14280円。高い、高すぎる。
それでも買うべきか、やはり借りるべきか、それとも書評だけで読んだ気になるべきか・・・。
あなたはどうする?!



過激化した運動はもはや広い支持を集めることができなくなる。過激化する一つの契機は、本来素朴な社会への疑問を持った人々を政治的党派が自らの政治的主張を実現せんがために、運動を引き回す。その結果、無党派は行き所を失い、運動から離脱する。

ということ。

_ Y-SONODA ― 2009/12/04 08:44

at homeさんへ

とはいえ最新記事の労組業界勢力図と無縁ではないと思いますが・・・。

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_ 試稿錯誤 - 2009/09/11 20:31

                                  上下巻、合計2000頁(計1万五千円)の<大冊>であるが、日本の学生運動全体を描こうとおもえばこのボリュームでも不足だろう。下巻で扱われた連合赤軍(16章。この章が一番出来がいい)だけを詳細精密に記述するのにも2000ページの書籍が必要であろう(日本の書籍はだいたいにおいて記述の絶対量=文字数、が足りないのがおおい)。 わたしは図書館で借りて、昨日と一昨日の二日かけて読んだ。上巻を読んだ時点では不満が数々残ったが、下巻とくに、15章「ベ平連」(約200ページ)、第16章「連合赤軍」(約170ページ)の記述を読むにいたって、著者の執筆能力に感嘆した。ベ平連についてはすでに数巻にわたる資料集が出版されており、小田実自身もぶ厚い回顧録を残している。連合赤軍についても映画を含め多くの書物が出版されている(わたしはまとまった単行本を読んだことがない)、ということを考慮しても、これだけの限られたページ数で過不足無く説明しきる筆力はたいしたものである。こういう本は通常速読を許さぬものだがこの本(というより小熊の書いたものはいずれも)は速読が可能である、ということは日本語の文章がよい(読み返さなければ意味を把握できない日本語が最近多い)、ということなのだろう(内容も、というわけにはいかないが)。 わたしは1969年年1月19日の東大安田講堂陥落は某書店のTVで見た。(ということは、その日は週末であったはずである。暦を調べたら19日は日曜日。TVの視聴率が高かったワケだ)。 # 以下、読書中のメモから拾い出した感想をアトランダムに記す。 1 この本のタイトルにまず違和感がある。著者も日本の60年代~70年代の学生運動を総称するに、通称されている世界革命1968という命名はふさわしくない、と本書中でもたびたび異議を称え、説明している。であれば、内容に則して『60~70年代日本の学生叛乱』とでもすべきだったのではないか。私見では1968年という限定は出来ないが当時の世界の情勢、冷戦のなかの繁栄、ベトナム戦争の実態(日本の関与と関与を隠蔽する仕組み)、は陰に陽に学生の心理に反映しておりこれが背景にあると思う。つまり、高度成長期(から、現在に至るまで)の世界を覆っていた、藤田省三のいう人間を商品化する<全体主義>の蔓延が背景にある(著者は結論部下巻p777でい...