中国解剖:「漢帝国の世界戦略と武器輸出」を読む ― 2009/08/22 09:49
国立歴史民族博物館監修の「人類にとって戦いとは」全5巻がいずれもおもしろい。
今回は第一巻の「戦いの進化と国家の生成」から「漢帝国の世界戦略と武器輸出」に注目。
執筆者は岡村秀典・京都大学人文科学研究所教授。
私個人の関心から、「馬弩関」に関する箇所を中心に引用紹介させていただきます。
▼人類にとって戦いとは〈1〉戦いの進化と国家の生成
岡村秀典「漢帝国の世界戦略と武器輸出」引用紹介
http://www.amazon.co.jp/%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E3%81%AB%E3%81%A8%E3%81%A3%E3%81%A6%E6%88%A6%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%881%E3%80%89%E6%88%A6%E3%81%84%E3%81%AE%E9%80%B2%E5%8C%96%E3%81%A8%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%88%90-%E7%A6%8F%E4%BA%95-%E5%8B%9D%E7%BE%A9/dp/4887213328/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1250899226&sr=1-1
<P187からの引用>
卑弥呼以前、弥生時代の倭人は、たびたび漢帝国に朝貢し、さまざまな文物を下賜されている。その中には銅鏡のような宝器のほかに、鉄刀のような武器も含まれている。
それは当時の冊封体制の中で、どのような意味をもっていたのだろうか。
また、軍事的に重要な馬と弩(いしゆみ)が匈奴に流出することを防いでいた「馬弩関」を前八二年に廃止したことにともない、鉄器の対外的な輸出も解禁となり、日本列島に鉄器が流入することになった、という説が日本考古学のなかで支持されている。
馬と弩は、いまでいえば、ジェット機とミサイルに相当する、漢の最新鋭の武器である。
<P195からの引用>
冒頭に提起した「馬弩関」については、辺境に設けられていたとみる説(江上一九四八)と、諸侯国の軍事力を抑えるために畿内の周辺に設置されていたものとみる説(紙屋一九七八)があり、今後に検討すべき問題が含まれているが、「馬弩関」と鉄器の対外禁輸とを結びつけて解釈することは難しい。
ただ、戦国時代以来、中国は北方遊牧民の侵入を防ぐために長城を築き、つねに監視の目を光らせていたことは事実であり、匈奴に苦しめられていた漢が馬や最新式の武器の輸出を禁止していたのは当然のことであろう。
しかし、このような関所は北辺以外の辺境には必要がなかった。漢の戦略によって、馬や弩すら蛮夷に贈られることがあったし、戦略的に重要な武器類が商業的に流通することは少なかったと考えられるからである。
「馬弩関」は前八二年に廃止された。そのころ漢は匈奴と和親政策をすすめ、また匈奴は内部分裂によって弱体化し、前六〇年には匈奴の日逐王、前五五年には匈奴五万余人、前五二年にはついに呼韓邪単于が漢に投降する事態にいたる。
おそらく漢は「アメとムチ」を使い分けることによって、西南夷と同じように、匈奴諸族の離間を謀ったのではなかろうか。この推論の当否はともかくとしても、以上の事例によって、漢帝国の対外戦略のなかで武器は非常に重要な役割をはたしていたことは認められるだろう。
<P204からの引用>
おわりに
かつて日米安保条約をめぐって激しい論戦があり、いま日米安保共同宣言の合意をうけてガイドライン(日米防衛協力のための指針)の見直しがすすめられ、これにたいして中国が懸念を表明するなど、国際的な議論が巻き起こっている。
いまから二〇〇〇年あまり前、倭と呼ばれた当時の日本が中国の漢とはじめて政治的関係を結んだときから、じつは似たような問題が発生している。ここでは漢帝国の世界戦略をみる中で、考古資料としてあらわれる武器がどのように流通したのかを考えてみた。
国際関係は時間と地域に応じて多様に変化する。この中で人を殺す武器は、政治的に重要な取引の対象となった。それは二〇〇〇年前もいまもまったく同じである。
これまで弥生時代の国際関係については、銅鏡のみが注目され、ボロボロに銹ついた鉄製武器は俎上にのぼらなかった。あるいは農工具類といっしょに鉄器として一括されていた。
奈良県天理市東大寺山古墳から出土した「中平」年銘金象嵌鉄大刀ほどの歴史的意義が引きだせなくても、弥生時代の鉄製武器について、もとの輝きが少しでも研ぎだせれば、本稿の目的は達せられたことになる。
<関連記事引用>
漢の世界戦略秘めた大刀(日本の原像第9部鉄器登場:2)【大阪】
1999/09/24朝日新聞夕刊
「二千年ほど前の弥生時代の遺跡から発見されていた鉄の大刀は、中国・漢帝国が贈った安全保障体制のシンボルだった」。こんな論考を今春、中国考古学者の岡村秀典・京都大助教授が発表した。中国の歴史の流れの中に、日本の遺物を位置づけたもので、内外の注目を集めている。
それは、佐賀県東脊振村・三津永田遺跡出土の鉄製大刀(長さ約五十センチ)などを指している。三津永田は、弥生の大規模な環濠(かんごう)集落や祭壇、楼館跡などで有名になった吉野ケ里遺跡の北に接し、一九五三年には発見されていた。
弥生のカメ棺など百墓以上が発見された。焦点の大刀はカメ棺の中に、人骨や漢の銅鏡とともに眠っていた。柄頭(つかがしら)の一番手前の部分に輪のような飾りをつけた素環頭大刀。長大な刀としては日本列島最古の遺品だ。中国では当時、突く鉄剣から切る鉄刀へと武器が変わりつつあり、「最新鋭の武器」でもあった。
中国には「失われた道徳を悲しんだ孔子が東夷(とうい)=倭国(わこく)=へ渡ろうとした」との記録がある(『漢書』)。以前から「天性従順」な民族として倭人は理想化されていたらしい。一方、漢は皇帝の命令書を出して領域外の周辺国にも位を授ける冊封(さくほう)体制を築く。儒教を国教とした漢王朝は、海を隔てた遠方から来る「天性従順」な倭を臣属させることに、政治的に特別な意味を見いだしていたらしい。
岡村さんは漢の武器など、近年の考古学的な成果を総合して検討した。その結果、一世紀前半、周辺国の中でも倭の王を単なる朝貢国の王より一段上位に位置づけて外臣とした。そして、国境の安全と諸民族のコントロールを任せ、臣属の見返りに武器などを与えて軍事、経済的に援助しようとした、と結論づけた。
後の魏(ぎ)の皇帝は二百年余り後の二三九年、倭国の邪馬台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)に有名な「金印」「銅鏡百枚」のほか、「五尺刀」二本も与えている。さらに二四七年の狗奴国(くなこく)との開戦に際して、倭国への軍事支援に乗り出したらしいという。こうした具体的な戦乱については分かっていないが、三津永田大刀もその態勢を示す象徴だった可能性が強いと提唱した。
この論考は「漢帝国の世界戦略と武器輸出」と題して『人類にとって戦いとは[1]』(東洋書林)に収められている。日米ガイドラインをめぐるアジアの反発など、現代の国際関係をもほうふつさせる内容だ。岡村さんは「確かにガイドライン論議が、念頭にあった」という。
三津永田遺跡の大刀などを見つけたのは当時、京都大大学院生だった金関恕(ひろし)・大阪府立弥生文化博物館長。土取り工事で遺跡のがけ面に露出し、ピンチに陥っていたカメ棺を、ロープで宙づりになりながら先輩の坪井清足・大阪府文化財調査研究センター理事長らと救った。金関さんは「岡村さんの視角はざん新で、発見者としては、やや意表をつかれた感じだ。しかし分かりやすく、納得できる力作で喜んでいる」と高く評価している。
金関さんは、別の有名な鉄の大刀(百十センチ)の発見でも知られる。四世紀に築かれたらしい奈良県天理市の東大寺山古墳という全長百四十メートルの前方後円墳から、六一年に発掘した金の象眼銘文のある環頭大刀。中国・後漢の年号「中平(一八四-一九〇)」など二十二文字が読みとれる。
それは卑弥呼が女王になったころだ。権威の象徴として後漢から贈られたともみられ、これが百年以上たって、後の大和朝廷の武器管理者、和爾(わに)氏の本拠のひとつ、天理の古墳に副葬されたことになる。このため、「邪馬台国は近畿地方にあった」という有力な物証ともされている。
鉄でつくられ、弥生の日本列島にもたらされた大刀の数々。さびた刀からいま、国家誕生に至るかつての輝きが研ぎ出されようとしている。
平成15年度前期「アジア考古学研究Ⅰ」レポ-ト
東アジア・初期鉄文化の推移
~弥生時代500年かさ上げ問題を考える~
2003/08/07
倉本 卿介
http://kuramotokeisuke.ebo-shi.com/higasiajia.html
前漢第七代皇帝・武帝は、紀元前108年衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡ほか三郡を置き半島の大半を支配する。朝鮮の鉄文化はこの時点から直接中国の高度な鉄文化に接し、以後急速に発展し本格的な鉄器時代を迎えたが、武帝はそれより前、元封元年(紀元前110年)に全国46ケ所に鉄官を設置し、鉄の専売制を施行して国家の管理化に置き、かつ「馬・弩・関」と同様に、武器・鉄を門外不出としており、漢の高度な製鉄技術は武帝の後の昭帝まで輸出されなかったと思われる。
従って楽浪郡を通して導入された技術は、あくまで鍛冶技術だけで製鉄は含まれていなかったと思われる。楽浪漢墓出土の鉄製武器類はいずれも鍛造品であり、楽浪の鉄器類が朝鮮独自の文化に影響を与えたのは鍛造製の鉄器類の普及と言う面であろう。
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