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靖国の夏、今なお揺れる南北朝正閏論という活断層2009/07/23 21:40

ひっそりと佇む鎮霊社



英霊にこたえる会:エンディング・・・・武士道を伝えよう
忠臣楠正成・正行父子櫻井の訣別
http://homepage2.nifty.com/shukenkaifuku/eirei/E06Link/E0600mn.html



楠木正成こそが武士道の鑑。

昭和二年生まれの私の母ちゃんはまさにその時代を生きた人。
小学校の学芸会で「櫻井の訣別」を演じたことがあったと申しております。
これに「七生報国」も加わって戦中世代は楠木正成に特別な想いがある。

南朝忠臣たちを今なお熱烈に支持している人たち。
その周りには軽い乗りの南朝ファンクラブも取り巻いている。

もはやこれは宗教の領域。南朝教と呼んでもいいかもしれない。
その総本山は靖国神社。

南朝教信者たちに面と向かって、勘違いを指摘することなんてできません。
とはいえ、それとなく尋ねたことがありますが、なんとも微妙な反応でした。
中にはそれこそ「明治天皇すり替え説」を信じている人もいるのではないでしょうか。

特に戦中世代にとっては非常に繊細な問題。
今さらほじくり返されたくないとの想いも強い。


さて、靖国神社にはそれはそれは恐ろしいものが漂っている気配がある。
「こんなはずではなかった」との念が一塊の黒雲のようになって靖国神社全体を覆っているような感覚。

あの戦争もこんなはずではなかった。
そして、今もなお、こんなはずではなかった。

それを鎮める役目を負っている靖国神社。
極めて重要なお役目だということはわかる。

しかし、現在の「こんなはずではなかった」との想いは、やはり天皇に参拝して欲しいからだと思います。

靖国神社も天皇が参拝できるように少しは歩み寄った方がいいのではないでしょうか。
もうすでに「こんなはずではなかった」が怒りとなって靖国神社に向けられている。

皇室に近い麻生太郎氏の「靖国に弥栄(いやさか)あれ」に耳を傾けるべきだった。
麻生氏には最後の最後で皇室のためにひと踏ん張りしてほしいが、もはやもう無理か。

靖国に弥栄(いやさか)あれ 
麻生太郎
http://www.aso-taro.jp/lecture/talk/060808.html

靖国神社が歩み寄れないのは、その根っこにある南朝びいきが影響しているのでしょう。
これはもう遊就館に行けば、誰だって気付くはず。

今月のハワイ訪問で天皇、皇后両陛下は国立太平洋記念墓地で献花された。
この墓地には旧日本軍による真珠湾攻撃で戦死した兵士も眠っています。

05年のサイパン訪問でも米軍の戦死者や戦闘に巻き込まれて死んだ現地の人々もあまねく追悼された。
当時日韓外交がぎくしゃくする中で韓国人慰霊塔にも寄られた。

北朝系の天皇、皇后両陛下は敵味方の分け隔てなく慰霊の旅を続けておられる。

片や靖国神社は南朝忠臣の恨みを晴らすかのように「勝てば官軍」に固執している。

その溝はますます深まるばかり。

そういえば、靖国神社境内で唯一清らかだったのはひっそりと佇む鎮霊社の一角でした。


<画像引用>

鎮霊社|境内のご案内|靖国神社
http://www.yasukuni.or.jp/precincts/chinreisha.html

コメント

_ えの ― 2009/07/24 01:37

靖国 「追悼」ではなく「鎮魂」と称すべきか
http://faker.but.jp/column/index.php?p=61
『首相は以上の事を説明し、「246万余柱が争乱を撒き散らす『祟り神』と化す事を恐れ、それを鎮める為に参拝している」と言ってみてはどうだろうか。』
御霊信仰
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E4%BF%A1%E4%BB%B0
御霊神社
http://www.genbu.net/data/yamasiro/kamigoryou_title.htm
http://www.genbu.net/data/yamasiro/simogoryou_title.htm
「長銀破綻と将門怨霊」三宅善信
http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r12-16.htm
『山川草木悉皆成仏。古代から現代に至るまで、アニミズムの息づくこの国において、動物はおろか草木に至るまで霊的な精神性を有すると信じられているこの国において、非業の死を遂げた人の怨霊(ものすごいパワーがあると信じられている)をいかに鎮めるかが、歴史を貫く大きなテーマのひとつであった。』

_ Q ― 2009/07/24 02:08

北朝の天皇の末裔である現在の皇室からしたら、楠木正成よりも、足利尊氏のほうが、遥かに忠臣だよね。

後醍醐天皇の周囲には、わけの分からないような連中がたむろしているみたいな記述が、当時の記録に残っているぐらいだし。楠木正成は、そんなわけのわからない一人。だいたい、家筋からして、足利尊氏は皇室に信頼されやすい別格の家系だし、武家の中では。

後醍醐天皇は、皇室全体どころか、大覚寺統の中でも問題児扱いされていた。大覚寺統の嫡流の木寺宮や末流の常盤井宮は、全て持明院統側を支持していた。

_ ぽん夫人 ― 2009/07/24 13:45

拙い質問に対して記事と言う形でお答えいただきまして
誠にありがとうございます。

こんなはずではなかった。の一言に集約される悲痛な叫びは耳をふさぎたくなるような 思いにかられます。

天皇に必要以上にいろんな意味を持たせた明治以降が異常なのであって、多くの人が京都のどっかにいる公家の親分だろ、と思っていたころの感覚を取り戻した方が早いような気さえします。

人柱がごろごろ出てきた場所に住まう方が
靖国に行けないなんていっそのこと笑い話にしてしまえばよい。

期待に永遠にこたえてくれそうにないからと言って
己のエスノセントリズムに都合のいい存在に貶めるくらいなら、あきらめた方が潔い。

あきらめられた方は京都にお帰り遊ばされください。
行かないのなら間近でちらちらとお姿を披露されては
念が募る。

麻生さんが首相だったというのは最後の可能性だったのでしょうね。小泉さんの参拝は行った方が面白そうじゃん、くらいの感覚だったと思われます。

私の父の郷里では大きな護国神社がありますが、
父の子供時代の鎮守の森は自殺の名所だったのだそうです。

無念、絶望、こんなはずじゃあなかった、という悲痛な叫びがシンクロして、何かを誘っていたとしたら、
それはもう怨霊ではないですか。

出来れば京都に戻る前に 追難(そういえば楠もナンと呼びますね)の難(本当は人べんに難)の難追人になって全ての こうじゃなかったを鎮めてくださらないでしょうか。民とはこうした卑しいものです。南朝教の方々もまた民です。

_ Q ― 2009/07/24 19:27

皇室系図をじっくり見ていけば、古代天皇家の謎はもちろん、南北朝時代の原因も、よく見えてくる。
この場合、皇室系図を偽証したものと安易に決め付けないこと。歴史小説家やミステリ作家とかは、安易に皇室系図を偽証したものと決め付け、自分の空想の中で系図や歴史を創作する癖があるが、そんなことしたら文献の意味がなくなるし、それは現代人である我々の系図偽証に他ならない。

そもそも、わざわざ系図を偽証しなくても、隠したいことを闇につつむことなど簡単である。

では、ここでは、南北朝時代について、検証してみるが、鎌倉末期から南北朝時代あたりの皇室系図をじっくり見れば分かるのだが、

南北朝時代というのは、持明院統と大覚寺統との対立ではなくて、大覚寺統内部の継承者争いから始まったことが分かる。もともと、大覚寺統の嫡流の継承者は、後醍醐天皇の後は、彼の兄の後二条天皇の皇子である邦良親王だと決まっていた。その系譜が、両統体制での大覚寺統の本流とされていた。このことは、相手側の持明院統はもちろん、鎌倉幕府も支持していたのである。しかし、それに異を唱えたのが、後醍醐天皇である。

つまり、
北朝=持明院統+木寺宮(大覚寺統嫡流)+常盤井宮(大覚寺統末流)
南朝=大覚寺統の後醍醐流≠大覚寺統
なのである。

そんなわけだから、南北朝時代、南朝側を支持していた武家や公家などは、当時の日本の支配階級からみたら亜流の人物が多かった。後醍醐天皇の周りをわけの分からない連中が出入りしていたという記載が残っているぐらいである。

_ 猿田彦 ― 2009/07/25 00:13

聖と賤、表裏が一体となって天皇は存在する。

表だけを見ても天皇はわからない。

伊藤博文の出身地、熊毛郡束荷村へ行くと、
今でもそこら中に「人権」のポスターが張り巡らされている。
伊藤は25歳の時(慶応2年)に里帰りして以降、故郷には一度も帰ってない。
内閣総理大臣公爵となっても故郷に錦を飾ることはしなかった。
下関条約の場所からそう遠くはないのにである。

一方で、初代内閣総理大臣となったのは何故なのか?
議会も帝国憲法も成立する前に、天皇を補弼する最高位に就いた。

私たちはこの事実を事実として受け入れるだけである。

_ えの ― 2009/07/25 01:25

「長銀破綻と将門怨霊」三宅善信
http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r12-16.htm
『当時、そこには神田明神が鎮座していたので、そこに祀られていた大己貴命(オオナムチノミコト=別名オオクニヌシノミコトあるいは大黒様)と少彦名命(スクナヒコナノミコト=別名恵比寿様)と共に、平将門命(タヒラノマサカドノミコト)として、ご祭神として祀られるようになるのである。』
この記述は間違いです。
神田祭のご祭神
http://nishihei.com/03-01saisin.html
『御祭神は、柴崎村時代には三神合殿(天比理乃祥命・素戔鳴命[牛頭天王]・平将門命)といわれるが定かではない。
湯島台の時代から明神様の御祭神は[平将門命]一神となり牛頭天王は地主神として[素戔鳴命・奇稲田姫・八王子]の三殿が別に造られ後にその三社の祭礼は江戸の三天王祭としてその本社神輿の渡御は神田、日本橋、京橋の町人に熱狂的に親しまれた。
御祭神が平将門命一座では不都合な風潮のもと1700年以後の江戸時代の中期に一之宮[大己貴命(だいこくさま)]を奉祭したといわれるが氏子の町人たちにとっては将門さまの明神さまに変わりはなかったようだ。』
『明治維新後の明治七年に二之宮[平将門命]はかつて天皇家に背いた朝敵であると本社から末社へと格下げされ新たなる二之宮御祭神に常陸国磯前社より[少彦名命(えびすさま)]が奉祭された為に氏子の町人たちはナント怒りにまかせ、その後十年間に亘って神田祭をやめてしまった。』

_ Y-SONODA ― 2009/07/25 08:54

★えのさんへ

私は靖国神社とは御霊信仰のチャンピオンだと確信的に思っております。
そのため今回も「(怨霊を)鎮める役目」と書きました。
怨霊をイメージする御霊ではやばいので「英霊」にしよう。そして「英霊にこたえる会」。
しかし、靖国神社の性格こそが素朴な御霊(みたま)を怨霊に変えているケースもあるのではないかと。
騒ぎが起こるたびに怨霊が増えているのではないかと。
皇室との距離が広がっているために怨霊化が加速しているのではないかと。
実際に靖国神社を参拝してみて、そんなことを強く思いました。

★Qさんへ

すべてはロマン主義に行き着くのではないかと思うのです。
日本に限ったことではないかもしれませんが、歴史上の人物を美化する傾向にある。
司馬遼太郎史観もその傾向がありました。
最近の歴女なんてそれこそ恐ろしい。
そして今回紹介した坂本龍馬と楠木正成の関係。
歴史にロマンを追い求めるのはいいのですが、極端に美化すると歴史を変えてしまいます。

★ぽん夫人さんへ

今回の記事は靖国神社に参拝したときに素直に感じたことを書いてみました。
悲しいことにそこは怨霊だらけになっているような。
ご指摘の通り小泉さんの歴史観なんて軽いもの。
祀られている方々はそれも見抜いている。
鎮めるどころか下品な大騒ぎで怨念を生んでしまった。

ところで南朝教の方々は単なる民ではありません。
布教戦略と自己防衛戦略をお持ちです。
新聞やテレビや雑誌やネットを駆使して巧妙に活動されています。
気付き系に狙いを定めて洗脳しようとしていたような。
ぽん夫人さんだって思い当たる節があるのではないでしょうか。

★猿田彦さんへ

聖と賤、表と裏、陰と陽。
それで伊藤博文と熊毛郡束荷村と「人権」のポスター。
なにやら相当意味深。
そういえばぽん夫人さんも以前このあたりに言及していたような。
それでも超えてはいけない一線があると思うのですが、いかがでしょうか。

_ えの ― 2009/07/25 23:35

靖国神社のすぐ近くに御霊信仰の象徴である「平将門公」と「菅原道真公」を御祭神とする築土神社(つくどじんじゃ)があります。
http://www.tsukudo.jp/gaiyou-tizu.html

神田明神と同様に、祭神であった平将門公が明治政府に冷遇されたため、明治7年に霧島神宮より天津彦火邇々杵尊を勧請。
築土神社が平将門公を祀る神社であることを再び公言するのは、鎮座1050年を記念し御由緒を発行した平成2年のこと。

神田明神の柴崎村時代の御祭神「天比理乃祥命」は忌部氏の祖「天太玉命」の后神で安房国洲崎神社(式内社)から勧請。

_ Y-SONODA ― 2009/07/26 09:08

えのさんへ

今でもみんな平将門や菅原道真が怨霊になったことは知っていますよね。
南朝系も怨霊になったとされているのにみんな完全スルーで、そのまま神さんにしちゃった。
クスノキコラムでも取り上げましたが、怨霊をそのまま神として祀れば、マイナスパワーがますます増幅されて史上最強の怨霊になってしまうような気がするのです。
これってどうなんだろ。気になって仕方がない。

おっ。ここでも忌部氏が・・・。

_ えの ― 2009/07/26 13:16

呉海軍墓地について
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/kurekbk/
こちらのような慰霊と鎮魂のありかた日本の伝統にかなっているように思います。
慰霊祭は神式と仏式で、地域コミュニティ、後継者である「海上自衛隊」、技術指導をうけた英国海軍との関係が維持されている。

_ Y-SONODA ― 2009/07/27 08:43

えのさんへ

呉海軍墓地情報ありがとうございます。

ところでえのさんは「靖国に弥栄(いやさか)あれ」は漢字が苦手な麻生さん本人が書いたものと思いますか?
なんとなく全面的に皇室の意向が反映されているように感じるのです。

_ えの ― 2009/07/28 01:51

>「靖国に弥栄(いやさか)あれ」

当然秘書が書いたのでしょうけれど、「ヒゲの殿下」を通じて皇室の意向が反映されている可能性大と思います。

ところで小泉元首相の地元、横須賀の海軍墓地は戦後横須賀市営墓地となったが、市当局の方針により戦没者慰霊碑の建立は一切許可されていない。
馬門山墓地
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/0815-2yoko.htm

靖国神社よりこちらをなんとかすべきではないかと。
小泉家は海軍工廠に大工、左官、人夫等を送り込む口入屋(今でいう人材派遣会社)として財を成した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B3%89%E5%8F%88%E6%AC%A1%E9%83%8E

_ Y-SONODA ― 2009/07/28 08:05

えのさんへ

>当然秘書が書いたのでしょうけれど、「ヒゲの殿下」を通じて皇室の意向が反映されている可能性大と思います。

このあたりに通じた秘書はいなかったような気がする。
やはり皇室から書かされたのではないかと。

それにしても小泉さんがいかに軽いノリの人物だったかがわかりますね。
どうも情報ありがとうございました。

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