「鳩の乱」を読み解くキーワード ― 2009/06/13 09:25

鳩山邦夫の「政府に尋問の筋これあり」発言。
ここから導き出されるキーワードは、「征韓論」に「有司専制」、それに「自由民権運動」。
そうなるとすでに朝鮮半島有事を想定した動きが政府内で始まっている可能性が浮上。
さらに政界再編から憲法改正へ。
気になるのは有司専制。
当時の元凶は大久保利通、岩倉具視。
西郷隆盛は藩閥政治における汚職の実体をつかんでいたとの説もある。
おそらく鳩山も郵政に絡む汚れた部分をつかんでいるはず。
その元凶が大久保の血が流れる麻生太郎とは思えない。
そうなると麻生・鳩山が組む「麻鳩の乱」へと発展か。
郵政爆弾を抱えたまま下野した鳩山の動きに注目。
さて、皆さんは今回の「鳩の乱」をどう見ますか?
<画像引用>
「民撰議院設立建白書」が掲載された『日新真事誌』第206号(明治7年1月18日)
http://www.ndl.go.jp/modern/img_l/S004/S004-001l.html
<西郷・大久保関連記事引用(リアリスト的大久保像に注目を>
【はじめて書かれる地球日本史】(319)西郷隆盛の位置(4)
1998/11/30産経新聞朝刊
青年期、大久保利通が西郷隆盛に諭す。「藩は土地だけに頼らず、金儲けを」。西郷は不純に思う。その後、多くの人士に裏切られ、罠にかかり、限界までの智恵と大勇、そして決死の行動をとり続けた西郷と大久保は、いつも表裏一体で守り合ってもきた。維新の英傑の中でも西郷・大久保の労苦と功績には出色のものがあろう。
この竹馬の友の人間関係ほど、ある意味で神秘的なものはあるまい。二人がはっきり「違い」を明確にしたのは、やはり「征韓論」である。この時、確かに大久保はさかんに征韓論を抑えようとした。大久保ほど政治的リアリストはいない。彼の反対理由の一つは、「時宜を得ていない」であろう。
◆薩摩内の分断を策す
とにかく、五稜郭(ごりょうかく)の逆賊榎本武揚を維新後「有能な人材」として登用する大久保だ。その「合理性」と「現実主義」は徹底している。だからこそ、征韓論にあれほど猛反対しながら、西郷下野後の明治七年(一八七四)、大久保は台湾出兵を遂行している。
大久保はこれには大いに積極的であった。大久保の意図としては、征韓論に敗れて政府に対してもつ薩摩の不満を抑えようとしたのか。台湾出兵でバランスをとろうとしたのか。清王朝は「あそこ(台湾)は化外の民、化外の地」といって謝罪しようとしない。沖縄島民が略奪虐殺されている日本とは当然外交係争になる。大久保はこの事件を逆手にとり、薩摩の中の分断を策す。内心はきっと「薩摩の不満分子を兵隊として台湾へ連れていける」だったのかもしれない。
後の西南戦役の「西郷討伐軍」のメンバーをみると驚かされる。討伐軍の主要メンバーは山県有朋、川村純義、野津鎮雄、野津道貫、高島鞆之助、黒田清隆、川路利良、大山巖とある。何と参軍山県有朋以外はすべて薩摩隼人(はやと)だ。しかも、山県出陣のあとを受け陸軍卿代理の任を務めるのが西郷従道、実に西郷の実弟である。大久保の政治力「恐るべし」である。西郷の胸中には暗然たる気分がたれ込めていたに違いない。
西郷は、明治政府に立ち向かう気持ちなどさらさらなかったろう。だからこそ、明治十年(一八七七)一月二十九日の、私学校生徒の政府火薬庫襲撃を末弟の小兵衛から耳にした時、西郷は「しまった」と雷電のような大声を放ち、「お前達がおって、何ということをするのかッ」と小兵衛を怒鳴りつけている。「よか、おいどんの生命(いのち)をおはんらにあげよう」。この西郷の言葉の響きには、限りなき「諦観」がにじみ出ている。
◆富国最優先の国策
やはり、西郷・大久保の離反は「岩倉使節団」以降が決定的なのだろう。欧米の文明、そして産業構造や軍事力のスケールにさしもの大久保・木戸・伊藤も圧倒される。アメリカ、イギリス、フランスを観た時、大久保はある種の絶望感を胸に抱く。しかし、プロシアへ行き、ビスマルクに会う。そして大久保は「日本もやれるかもしれぬ」の自信と希望と展望が心中にこみ上げる。「欧米のガバナビリティー(統治能力)はキリスト教だ、日本では天皇制度しかあるまい」。大久保は強く胸に期す。そして、帰国後「富国強兵」、「殖産興業」に一身を賭す。十八世紀にイギリスのデビッド・ヒュームは「奢侈(経済力)が武器を手に入れ、国は強くなる」と喝破したが、大久保は伊藤・井上馨等とともに「富国優先論」の立場さえとる。この国策とは、西郷と決定的に異なる。外交に大久保ほどの明確な姿勢とポリシーを持ち得ない西郷は「内乱を願う心を外に移して国を興す」を思うが、あくまで「富国」になじめない。ただ近未来において、「『有司専制』を克服し、立憲的形態を許容しつつ、限りなく天皇親政に近い道義的国家形態を」と願っていたのだろうか。
征韓論時、自分が出向き、死地に赴く西郷の決意を国民が讃え、行く末を注視する。そして、朝鮮によって国書をつき返された日本のナショナリズムは、状況により一挙に高揚するだろう。西郷はそう読んだに違いない。
大久保が西郷に日本国の進路を任せることに本気で危険を感じたのは、実にこの秋(とき)であったのだろう。マルクス主義史観は歴史を「革命と断絶」でみる。畢(ひっ)竟(きょう)、維新の評価は低い。だが、事実として大久保の敷いた国家路線は百年以上持ち堪(こた)え、西郷の人間的魅力は日本の近現代史で遥かに光彩を放ち、日本人の心を支え続けている。大久保は紀尾井坂で惨殺されるが、死体の懐中には、何と欧米視察途中の大久保に宛てた西郷の血染めの手紙が秘められていた。
(新・松下村塾塾長 濤川栄太)
<関連記事>
やはり元凶はこの人たちのようです
首相、当初は「西川交代」…竹中・小泉コンビが封じ込め
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090613-OYT1T00127.htm?from=main2
鳩山兄弟の「友愛大連立」
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2009/03/17/4187238
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