Google
WWW を検索 「園田義明めも。」を検索

バックミンスター・フラーのダイマクション・マップ2008/07/20 08:16

ダイマクション・マップ
http://www.bfi.org/node/25


日本で知られている曼荼羅は、確かに大日如来が中心にいる。
これはやはり中が聖で外が俗という閉じられた曼荼羅。

しかし、モデルとか論理の関係の図としての曼荼羅は、
閉じられた曼荼羅ではなく、
むしろ開かれた曼荼羅ととらえるべき。

南方熊楠は最初からそのへんに気がついていた。
結界云々にとらわれない広い意味での曼荼羅のとらえ方、
そういう発想を熊楠がもっていたことはすばらしいことだ。

また熊楠がもう既成の事実として書いているのが、
「曼荼羅は平面でもあるが立体でも可能だ」ということ。

以上、密教学の第一人者である頼富本宏の発言より
『曼荼羅の思想』鶴見和子&頼富本宏(藤原書店)

空海と曼荼羅と水銀朱2008/07/20 11:44

大原三千院・往生極楽院
大原三千院・往生極楽院の「舟底型天井画」
http://www.asahi.com/ad/clients/bravia5/index3.html

ここに使われている赤も水銀朱でしょうね。

▼引用開始
曼荼羅復元 「大法」胸に帰国、雌伏の時 中国から伝来サルスベリ=特集2005/08/23, , 大阪読売新聞
 ◇花とお大師さん(福岡県太宰府市)
 唐の都・長安で真言密教のすべてを伝授された弘法大師空海は、20年の留学計画を2年に縮め、大同元年(806年)10月、高階遠成(たかしなのとおなり)らの遣唐使船で帰国する。一行は、「遠(とお)の朝廷(みかど)」と呼ばれ九州全域を統括した京以外で最大の役所、大宰府(福岡県太宰府市)に入る。高階らはすぐに入京を果たすが、空海だけは止(とど)まり、大宰府政庁の東に広大な甍(いらか)を誇っていた観世音寺へ移る。空海の足跡をたどり、その思いを探るこのシリーズの4回目は、晩夏の筑紫を訪ね、やがて日本思想の母胎ともなった空海の密教哲学が花開く、その前夜までを見ておきたい。
 クスノキ林が夏陽を柔らかく遮って観世音寺の境内は、深閑としていた。天智天皇が、百済救援で出征しここで亡くなった母・斉明天皇を弔うために創建したという当初の寺域は3町四方で、今の6倍以上もあった。天平宝字5年(761年)には官僧になる戒律を授ける全国3戒壇院の一つが設けられた。江戸前期に再建された本堂(講堂)周辺の礎石群、全国最古とされる飛鳥時代の梵鐘(ぼんしょう)などが往時の空気を漂わせる。
 現在の住職は、弥生時代社会の研究で知られる考古学者(西南学院大教授)、高倉洋彰さん(62)だ。境内の発掘調査にも携わっており、宝蔵に伝わる「観世音寺絵図」と比較しながら空海が滞在したであろう場所を案内していただいた。「絵図の原図は平安末期の作で、講堂の背後に長大な僧房が描かれています。実際に発掘で東西104メートル、南北10メートル余りの建物跡が見つかりました。ここは観世音寺の僧たちの日常生活の場で、空海は『客僧房』と呼ばれた所で寝起きしていたと思われます。僧房のさらに北側で出土した建物跡がそれのようです」
 空海が帰国後、ここに1年近くも過ごした理由については、いくつかの説がある。一つは、国家が命じた留学期間を大幅に短縮してしまったこと。さらに、空海より1年早く帰国した最澄が、桓武天皇の支持を得て、天台宗の体系とともに持ち帰った密教においても指揮者の地位を得ていたことなどだ。
 さらに、密教の正統な継承者・恵果から大法を授かっていた空海は、自身が都から求められることを信じ密教宣布のエネルギーを蓄えていたとの見方もある。先に上京した高階遠成に空海が託した「請来目録(しょうらいもくろく)」の冒頭にも「今すなわち一百余部の金剛乗経(こんごうじょうきょう)、両部の大曼荼羅(まんだら)海会(かいえ)、請来して見(けん)に致る」と誇らしげに述べている。その後に、唐から持ち帰ったおびただしい密教の経典や仏画・法具・典籍などを記す。中に今回、復元・再生される平清盛寄進の「血曼荼羅」の原図とされる「根本曼荼羅」も含まれる。
 空海は、その著作を集めた「性霊集(せいれいしゅう)」によると観世音寺にいた大同2年2月、大宰府政庁の次官補・田中少弐(しょうに)の依頼で、その亡母の法要を営んでいる。千手観音を中心とする13尊の曼荼羅を描くなど、真言密教の規則に従ったわが国最初の例という。
 高倉さんが空海の居所、客僧房だったとみる地の一角に立った。サルスベリの老木が、真っ白の縮れた独特の花弁を全面に咲かせていた。サルスベリは、中国原産で日本に伝わったのは江戸時代以前としかわからない。寺院によく植えられており、中国に留学した僧らが経典などと一緒に持ち帰ったのかもしれない。ただ、先輩の空海の時代まではさかのぼらないようだ。
 しかし、唐で密教のすべてを託され勇んで帰国した空海が雌伏の時を過ごした地に思いを寄せ、その姿をしのばせるかのように後世、植えられたのではと考えたくなった。(文・坪井恒彦 写真・江口聡子)

▲引用終了

この記事はWEBにもあります。
http://osaka.yomiuri.co.jp/mandara/md50823b.htm

この中に「空海も目にしたであろう天平期の大型石臼が本堂前に伝わる。建物を彩る水銀朱を取り出すのに用いられたらしい」と書かれた写真がありますね。

空海は唐から大画面の図像(根本曼荼羅)を持ち帰った際に、
水銀朱の必要性に気付く。
さらに観世音寺の石臼で水銀朱の作り方を
学んだのではないでしょうか。
高野山真言宗総本山金剛峯寺の「絹本著色両界曼荼羅図」にも
水銀朱が使われているはず。

「曼荼羅を描くための水銀朱」との見方をしている人はまだ少ないようですが、水銀掘りの空海山師説というのはほぼ正しいのではないかと・・・。

ここまて立ち入って考えないと、
鶴見&中沢らのロマン派に対抗できないもんねw

丹生都比売神社の研究
http://www.cue.tokushima-u.ac.jp/staff/hirowata/takemoto%20file.pdf

平林寺の不思議(3).
http://www.asahi-net.or.jp/~uu3s-situ/00/3.html