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今蘇る長州・田布施のアッチッチーなDNA - 岸信介から安倍晋三へ、吹田愰から西村康稔へ、揃って挑むは「維新」同志の保守合同2012/08/29 08:00



日経ビジネスの『維新、本命は「安倍首相」』にはこう書かれている。

「9月の自民党総裁選に安倍さんが勝てば、一気に路線転換を図る。総裁にならなくとも、衆院選後に党を割り、維新などと連立を組んで首相に就く道もある」。安倍氏に近い議員や維新関係者の間ではこんなシナリオも浮上している。

ここでインサイダー情報。

「いざとなったら党を割る覚悟もある」と安倍は一年近く前から側近に繰り返していた。
しかし、側近ですら「安倍にそこまでの根性が本当にあるのか」と大いに疑問視。

それでも選挙結果次第で安倍が仕掛ける可能性は否定できない。
それに乗っかる民主党保守派も出てくるだろう。

長州・田布施のアッチッチーなDNA。
それを引き継ぐアッチッチーな安倍一派。

普通の人には彼らの怖さが理解できないだろう。
私の方はこの一年、ビビりまくっている。


<関連記事>

橋下氏と安倍元首相をつなぐ“岸信介”
2012.08.28
http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20120828/plt1208280740002-n1.htm

 既成政党や政治集団から熱烈ラブコールを受ける「大阪維新の会(維新)」代表の橋下徹大阪市長と、その橋下氏がラブコールを送る相手である安倍晋三元首相-。

 当面の政局展開を見据えれば、この安倍、橋下両氏の言動にメディアの耳目が集まるのは当然である。

 「政党化」を目指す維新が次期衆院選で50~70議席獲得するのは間違いないとされる現在、橋下人気に便乗したいと考える政党(政治家)が続出するのも自然の成り行きだ。

 と同時に、9月23日に予定される自民党総裁選での再選を目指す谷垣禎一総裁が、民主、自民、公明3党の「大連立」に異論を唱える安倍氏の総裁選出馬を気にかけているのもまた当たり前のことだ。

 岸信介元首相の外孫(娘・洋子の次男)である安倍氏は、自民党幹事長時代の8年前、筆者に「少し前までは岸信介のDNAというのは大変なマイナスイメージだった。それがこの1年ほどで大きく変わったという気がします」と語った。

 それは、政治学者の間で「岸信介再評価」が始まったころであった。具体的には、岸氏が公職追放を解除された1952年4月に結成した日本再建連盟と、国会に議席を得た後の54年11月に保守系反吉田(茂元首相)勢力の鳩山一郎元首相らと結成した日本民主党、それぞれの綱領への再評価であった。

 自主憲法制定、自主軍備確立、自主外交を三本柱とする「岸政治」のことである。当時とは表現こそ変わるが、安倍氏が言う「自立する国家」の実現は、おおむね岸氏が保守合同(自由民主党誕生)を通じて自らの政権を立ち上げて実行しようとした「経済自立の達成と独立体制の整備」を仕上げることに他ならない。

 もともと、保守志向が強い橋下氏は、実はそこに共鳴しているのではないか。維新との合流を目指す超党派衆院議員による「道州制型統治機構研究会」の中核メンバーである民主党の松野頼久、自民党の平井卓也と西村康稔の3氏には共通項がある。

 頼久氏の父、頼三氏は岸内閣で総務庁長官と労働大臣、卓也氏の祖父・太郎氏は岸内閣時の参院副議長、西村氏の岳父・吹田晃氏は地元・山口県の城代家老だった。3人は「岸信介」をキーワードにくくれるのだ。

 さて、安倍氏が挑戦することになる谷垣氏の母方の祖父は、戦時中の中国戦線不拡大を唱えた影佐禎昭陸軍大佐である。(ジャーナリスト・歳川隆雄)


★西村康稔
自治大臣、国家公安委員会委員長を務めた元衆議院議員の吹田愰は義父
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%9D%91%E5%BA%B7%E7%A8%94

★吹田愰
山口県熊毛郡城南村(現田布施町)生まれ
田布施町長を3期務める
衆議院議員(6期)、自治大臣(第41代)、国家公安委員会委員長(第51代)、山口県議会議員(4期)等を歴任
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%B9%E7%94%B0%E3%81%82%E3%81%8D%E3%82%89


▼「田布施・岸信介・安倍晋三・吹田愰(吹田アキラ)・松野頼三」が揃って登場する記事

[昭和時代]30年代(10)岸信介=中 巣鴨から永田町へ(連載)
2011/07/02 東京読売新聞 朝刊 18ページ

 ◇第1部 30年代(1955~64)

→A級戦犯容疑者だった岸信介は戦後、巣鴨プリズン(旧東京拘置所)を出所してから、わずか8年余で首相に上り詰めた。岸はよく「政治家は運が大半」と語ったが、それだけで首相になれるはずもない。岸は、いかにして危地を脱し、短時日で復権できたのか。岸の「最高権力への道」をたどることにしたい。(文中敬称略)

 ◆政治的復権の極意とは

 ■死と背中合わせ

 1955(昭和30)年11月15日、東京・神田の中央大講堂は熱気に包まれていた。日本民主党と自由党が合併して生まれた自由民主党の結成大会。岸は、民主・鳩山一郎、自由・緒方竹虎の両総裁とともに壇上に立ち、高々と万歳した。

 自民党が以来38年間も続けて政権を担当するとは、いったい何人が予想していただろう。ただ、この保守大結集のドラマで確かなことは、岸が復権に向けて着実に政治力を蓄えたことだった。

 ここで一旦(いったん)、時計の針を10年前に戻そう。というのは、岸の政界復帰は、獄中生活からの生還なしには考えられないからである。

→45(昭和20)年9月、岸はA級戦犯容疑者として逮捕されることを郷里の山口県田布施町で知った。家族と水杯を交わして横浜へ向かい、大阪駅では、実弟の佐藤栄作の妻寛子に、「あとは栄作しかいないんだよ」と言って涙を見せた。

 岸が巣鴨プリズン(東京・東池袋)に収容されたのは45年12月。長女の洋子は、「命があって戻れるとは思えない状況だった。今生の別れかと思った」と振り返る。

 朝5時半に起き、夜8時半に寝る。食事は腹八分。朝と夕の1時間ずつ庭を散歩し、コンクリートの床をブラシでこする作業を課せられた。米国人看守からは裸の身体検査を強要された。後年、岸は「現在の私の健康は監獄のおかげ」と話したが、当時は、手荒な扱いに憤慨することがしばしばだったようだ。

 ■米ソ冷戦を頼みに

 岸が収監中、最も気がかりだったのは自らの処遇だった。連合国軍総司令部(GHQ)は46年4月29日、A級戦犯28人の起訴を公表した。起訴を免れた岸は、2日後の日記に揺れる気持ちをつづっている。

 〈既ニハツキリ覚悟ハ定メタル処ナレトモ又欲モ起リ虫ノヨキ希望ノ話ニツイ耳ヲ傾クルモ人情ナリ〉

 獄中では、第2次の起訴が行われるとの観測やさまざまな噂(うわさ)が飛び交った。連合国軍総司令官のマッカーサーは、岸や大東亜相だった青木一男ら東条英機内閣の閣僚の訴追にこだわっていた。

→岸は首相時代、総務長官の松野頼三(のち自民党政調会長)に、「ちょうど頭の上にゴロゴロ雷が鳴っているみたいで気持ちが悪いよ。いつ落ちるかわからんから」と、死と背中合わせの生活を吐露している。

 東京裁判に詳しい鹿児島大の日暮吉延教授は、「岸は2回目の起訴があればその筆頭格で、実際、主に東条内閣の元閣僚を対象とした裁判計画は実現の一歩手前まで行った。しかし、GHQは東京裁判の判決内容からして、岸ら元閣僚を有罪に持ち込めないと判断した結果、起訴を断念した」と指摘する。

 GHQ側の事情を知らない岸自身にとって、米ソ冷戦の推移が「唯一の頼み」だった。岸の国際情勢を見る目は確かで、46年夏には東西ブロックの対立を察知し、中国共産党の大陸支配にも強い関心を抱いていた。

 冷戦が深まれば、日本を「反共の防波堤」としたい米国は、対日政策を変更し、戦犯への懲罰の手を緩める可能性があるという読みである。

 岸は「反米」ではあったが、それ以上に強烈な「反共」主義者だった。元財務相の塩川正十郎は、岸が後年、出獄の理由に触れて、「アメリカは私に、政治家としての力量を期待しておったんではないかと思う」と語った、と記している。

 「冷戦」が岸の頭上にあった「雷雲」を吹き飛ばしたと言えるかもしれない。48年12月24日、岸は不起訴となり釈放された。まだ、52歳だった。東条らA級戦犯7人の死刑が執行された翌日のことだった。

 ■「右でも左でも」

→巣鴨を出た岸は、山口・田布施に戻った。青年団長をしていた吹田アキラ(元自治相)は、岸に講演を頼み、岸を自転車の荷台に乗せて会場に行った。「岸先生は日本の再建を訴えた。青年たちへの叱咤(しった)激励がすごかった」と吹田は振り返る。

 52(昭和27)年4月、公職追放が解除されると、岸は「日本再建連盟」を結成し、基本政策に「共産主義の侵略排除」や「憲法改正・独立国家の体制整備」を掲げた。しかし、再建連盟は10月衆院選で1人しか当選できず、惨敗した。

 だが、岸はこの後、変幻自在な政治行動をみせる。右派社会党の衆院議員・三輪寿壮を通じて右社への入党を打診し、断られたのだ。岸は「ぼくの思想からすれば右社あたりの政策がぴったりだ」と語ったことがある。実際、首相として59(昭和34)年、最低賃金法や国民年金法を成立させるなど、社会政策にも力を入れた。「岸は何でもあり。右四つでも左四つでもとれた」とは、松岡満寿男・元衆院議員の指摘だ。

 53年4月衆院選では、実弟の佐藤栄作の手引きで、手厳しく批判してきた吉田首相の自由党から出馬し、当選した。岸は10年ぶりに国会に返り咲いたのである。

 岸は、戦後の民主政治では、明治憲法下で「絶対」だった天皇に代わって「数」が重要になる、と見ていた。権力の座を手に入れるのも、法律を成立させるのも、しょせんは「数」の力というわけだ。

 当時、永田町では、公職追放で政権をフイにした鳩山一郎が、吉田に「総裁奉還」を求め、抗争がエスカレートしていた。吉田長期政権に対する倦(う)みと、吉田の「対米追従路線」への反発も渦巻いていた。

 岸はこれを追い風に石橋湛山や芦田均らと新党計画を進め、54(昭和29)年11月には、自由党の岸派・鳩山派、改進党、三木武吉・河野一郎らの日本自由党の議員で「反吉田」の日本民主党を結成し、幹事長として吉田首相を退陣に追い込んだ。

 岸は、「政局の安定は爛頭(らんとう)(切羽詰まった状態)の急務」との自由党声明(54年4月)を発していた緒方竹虎らと、さらなる「数」を求めて自民党の結成に進んだ。

 岸は55(昭和30)年8月、重光葵外相の訪米に同行した際、ダレス米国務長官に対し、共産主義に対抗するための「保守合同」への努力を表明していた。左右社会党も統一へと動き、財界からも保守結集の要請が強まっていた。

 だが、民主党内では、松村謙三、三木武夫らがこれに反対し、宇都宮徳馬のように「政策を持たぬイージーな現状維持政党と、社会主義イデオロギーに縛られた観念的政党との対立」が生まれると、警告を発する議員もいた。自由党内では吉田直系の池田勇人、佐藤らが消極的だった。

 保守合同の決め手は、三木武吉(民主党総務会長)と大野伴睦(自由党総務会長)という古強者の荒技だった。だが、この二人と岸、石井光次郎(自由党幹事長)の4者会談で、岸が政策調整などでみせた力は見逃せない。ソツなく、あちらを立てればこちらも立てる、「両岸」政治の本領が発揮された。

 岸は、英国流の2大政党制――それも革新勢力の右派を含む「保守」と、保守勢力の左派を含む「革新」の2大政党による、政権交代のある政治を持論としていた。自由党にも、民主党にも未練はなかった。戦後派と戦前派、官僚派と党人派の双方に通じていたのも強みだった。

 ■保守合同で実権掌握

 党運営の実権を掌握した岸は、当然のように自民党幹事長のイスに収まった。そして「ポスト鳩山」が有力視されていた緒方の急死、石橋首相の病気退陣によって一気に政権を手中にする。

 戦前の内務省エリートで、戦後、政界に転じた古井喜実(元厚相)は〈岸さんは日本再建連盟ちゅうおかしなものを作ってウズウズやっとったんだよ、……いつかなし座敷の真ん中に座っちゃったんだよ〉と、岸の能力に舌を巻いている(岩見隆夫『昭和の妖怪・岸信介』)。

 岸研究で知られる原彬久(よしひさ)・東京国際大名誉教授は、岸が急速に台頭したのは、保守合同への「大きな流れの中核にいたため」と指摘する。そして、「岸は『数』を糾合するが、単なる合従連衡ではなく、運動を起こしている。戦前の反東条の『護国同志会』も、『日本再建連盟』も、保守合同も、下から、草の根から盛り上げる運動だった」と語る。

 ◆「数」を生むカネの力

 岸の言う「数」を生むためには、カネの力が必要だった。

 満州中央銀行総裁や南満州鉄道副総裁ら300人余りの回想記『あゝ満洲』をみると、そこには戦後も、日本の政官財界で活躍した人物が並んでいる。岸と側近の椎名悦三郎こそ、この満州(現中国東北部)人脈の代表的存在だが、岸の政治資金も、満州と商工省時代の人脈で支えられていたとの見方が多い。

 元日本商工会議所会頭の藤山愛一郎や、旧制一高の先輩で経団連会長を務めた植村甲午郎らも有力なスポンサーだった。植村は、岸が幹事長時代には選挙のたびに数億円を注ぎ込んだ、とささやかれた。

 岸は満州時代、「政治資金は、濾過(ろか)器を通ったものでなければならない」と説いていた。岸は後年、こう言っている。〈政治権力を得るためにカネが必要だとなると、あまた忌まわしいことも生まれる。そうはいっても、それが現実であることは認めざるを得ない〉。岸にとって、政治に使われるカネは必要悪だった。

 岸のカネの使い方は、戦時中、軍部が臨時軍事費(機密費)を使って政党を買収したのと同じ、との指摘もあった。実際、「ポスト鳩山」の自民党総裁選(56年12月)で、岸は3億円、石橋1億5000万円、石井光次郎は8000万円をばらまいたと言われている。政治は数、数はカネの力という「岸金権内閣」への批判は根強いものがあった。

 ◆岸流の権謀術数

 56年総裁選は、自民党派閥政治の幕開けだった。党内には「8個師団」の派閥グループが形成された。今の自民党派閥の源流である。

 総裁選は石橋が勝利したが、石橋―石井間では「勝った者が総理になり負けた者が副総理になる」(石井『回想八十八年』)との密約があった。だが、組閣の際、岸は「石井副総理」に反発してこれを覆させ、自ら副総理格の外相として入閣する。これが次の岸政権につながった。

 岸が警職法改正に失敗した後の58年末、池田国務相、三木武夫経企庁長官、灘尾弘吉文相の3閣僚が辞任し、岸は窮地に立たされる。この裏側で起きたのが「証文事件」だ。安保改定を前に、大野派の離反を恐れた岸は、59年1月、河野同席の下で大野と会い、「安保改定さえ終われば、私は退陣する。後継者としてはあなたが一番良い」ともちかけた。

 大野への「政権禅譲」は後日、帝国ホテルの一室で、「申合せたる件については協力一致実現を期すること右誓約する」という「誓約書」=写真、『児玉誉士夫自伝 悪政・銃声・乱世』(広済堂)より=が交わされる。岸、大野、河野、佐藤が出席し、萩原吉太郎(北海道炭礦汽船社長)、永田雅一(大映社長)、児玉ら民間人が立ち会って、連署した。「申し合わせ」とは、次期総裁を大野、その次は河野、次は佐藤であったという(『大野伴睦回想録』)。

 これは「空証文」に終わり、大野も河野も、ともに総理・総裁の座につくことはなかった。「ポスト岸」の座は、59年6月の内閣改造で、一転して主流派入りし、安保改定の終局で岸を支えた池田が獲得する。

→岸の孫の安倍晋三・元首相によれば、岸は後年、長男の信和から「その通りに譲ろうと思ったのか」と問われると、「あれをやらなければ、安保改定はできなかったかもしれない」と答えたという。

 こうした「政治とカネ」をめぐる醜聞、総裁選をめぐる実力者・派閥間の権謀術数は、その後の自民党政治で何度も繰り返される。(政治部 藤原健作)
 
 ◆獄中でも気力衰えず

 ◇岸の長女 安倍洋子さん83

 「(父が収監された後)部屋で父の着物など身の回りのものを見ると、本当に悲しくなりました。巣鴨には山口・田布施から3回ほど面会に行きましたが、3重の金網越しに父がいて、奥に憲兵が座っていました。冬でも、もちろん暖房はないし、窓に手ぬぐいを干すと朝には凍っていると話していました。かわいそうに思いましたが、父はしょぼんとはしていませんでしたね。

 安保騒動の時、東京・南平台にあった父の家の前はデモ隊で埋まりましたが、裏の勝手口は気付かれず、そこから出入りしました。父は家ではあまり政治的な話をしませんでしたが、家全体は非常事態という感じでした。時々、沈痛な表情を見せることがありました。よく一人でトランプ占いをしていました。内心うまくいくか、賭けていたのかもしれません。政治家は、それほど真剣でなくても『命がけで』とよく口にしますが、父は本当に命を懸けてやっていると感じました」
 
 〈証言〉

 ◆3つの不思議

 岸の元秘書の松岡敬祐氏(前山口県平生町長)(76)

 「田布施には、“踊る神様”と言われた北村サヨさん(天照皇大神宮教教祖)がいた。面白い話が三つある。岸先生が戦犯容疑で捕まった時、『なぜ水杯など飲むか。おまえは3年たったら出てくる』と言った。そうしたら本当に3年で出てきた。石橋内閣で外相になった時、『3か月したら総理になる』と手紙を書いてきた。誰も信じなかったが、(石橋の病気で)内閣がひっくり返った。三つ目は、岸先生が首相退任直前、官邸で男に左モモを刺された時、血が大量に出て先輩の秘書が慌てて北村さんに電話したら、『心配するな。後遺症も残らん』と。不思議なことに血管と神経の間を縫うように刺されていたので助かった」
 
 ◇クリップボード

 〈8個師団〉

 池田勇人、佐藤栄作、石井光次郎、大野伴睦、石橋湛山、岸信介、河野一郎、三木武夫・松村謙三を領袖とする8派閥を指す。1956年総裁選を機に旧自由党系では吉田茂派が池田派と佐藤派に分裂し、緒方竹虎派は石井派となった。旧民主党系では鳩山一郎の引退に伴い、鳩山派の一部が石橋派に合流、残りは河野派となった。旧改進党系では三木と松村のグループが一つになった。

 〈椎名悦三郎〉

 1898(明治31)年岩手県生まれ。東大法学部から農商務省―商工省入り。1933(昭和8年)に満州に渡った。1歳年上で商工省の先輩だった岸の腹心として岸商工相のもとで次官、衆院議員に転身後は第2次岸内閣で官房長官を務めた。72(昭和47)年に自民党副総裁となり、74年に金銭スキャンダルで退陣表明した田中角栄の後継に三木武夫を推薦した「椎名裁定」は有名。後藤新平・元内相は叔父に当たる。

 〈A級戦犯〉

 第2次世界大戦後、連合国が日本の戦争責任を裁く極東国際軍事裁判(東京裁判)で「平和に対する罪」(A級犯罪)などで起訴された軍・政治指導者ら28人。病死者などを除く25人が有罪とされ、このうち東条英機・元首相、広田弘毅・元首相、板垣征四郎・元陸軍大将、土肥原賢二・元陸軍大将、木村兵太郎・元陸軍大将、松井石根・元陸軍大将、武藤章・元陸軍中将の7人が絞首刑となった。岸はA級戦犯容疑者のまま不起訴・釈放された。A級戦犯のうち日米開戦決定時の東条内閣の閣僚らでは、賀屋興宣蔵相、嶋田繁太郎海相、鈴木貞一企画院総裁、星野直樹内閣書記官長が終身禁固刑、東郷茂徳外相が禁固20年の判決を受けた。
 
 ◎主な参考文献は次の通り。北岡伸一『自民党』▽内田健三『戦後日本の保守政治』▽後藤基夫・内田健三・石川真澄『戦後保守政治の軌跡』▽佐藤寛子『宰相夫人秘録』▽塩川正十郎『ある凡人の告白』▽原彬久『岸信介』『岸信介証言録』▽渡邉恒雄『派閥』▽日暮吉延『東京裁判』
 

単刀直言・安倍晋三元首相 多数派維持より政策重視
2012.8.28 00:49
橋下さんは慰安婦問題についても河野談話を批判。戦いにおける同志だと認識。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120828/plc12082800500001-n1.htm


自民党総裁選 民自公路線vs政界再編路線の様相 安倍元首相の動向焦点
2012.8.29 01:09
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120829/stt12082901100001-n1.htm


安倍晋三氏 解散総選挙で今自明なのは民主党が大敗すること
2012.08.28 07:00
http://www.news-postseven.com/archives/20120828_139363.html


維新、本命は「安倍首相」
2012年8月28日(火)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20120824/235992/?bpnet&rt=nocnt


橋下新党“9・12”旗揚げが意味するもの…安倍氏とは選挙後連携
2012.08.28
http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20120828/plt1208281811008-n1.htm


従軍慰安婦問題:安倍元首相、河野談話を見直す必要
毎日新聞 2012年08月28日 19時54分(最終更新 08月28日 20時12分)
http://mainichi.jp/select/news/20120829k0000m010055000c.html