Google
WWW を検索 「園田義明めも。」を検索

タヌキの養父は鳥や動物に突かれ蘇生した!2010/02/08 07:49

タヌキの系図 「吉田健三(吉田茂養父)、佐藤一斎、山本条太郎、近現代・系図ワールド」より


<関連記事引用>

ドル相場で巨富築いた宰相の父、吉田健三氏(10/2/7)(相場師列伝)
2010/02/07日経ヴェリタスマーケットonline(コラム)

新聞、英語塾…天下国家のビジネスにも奔走、有名な蘇生譚も

 ワンマン宰相吉田茂には2人の父がいる。実父が竹内綱、養父が吉田健三で、ともに幕末の志士から維新後は自由民権運動に加わり、そして商才に長(た)けていた点で2人には共通項がある。

 吉田茂は義父について回顧録の中で書いている。

 「最初はジャーディン・マセソンという英国の船会社の支店に勤めていた。それから自分で船問屋を始め、他の事業にも手を出し、何年かのうちに産を成して、新聞をやったり、英語塾を作ったりした。実業が天下国家のことだったので、国事に奔走するという気概と真剣味が、商売にも向けられたのだと思う」

 吉田健三の家系図を見ると、祖父に江戸後期の著名な儒学者佐藤一斎がいる。三井物産常務から満鉄総裁をつとめた山本条太郎は甥(おい)に当たる。山本の義兄が向井忠晴で、三井物産会長から大蔵大臣を務めた。華麗な系類である。山本が三井物産に入ったのは、叔父の吉田健三の口利きによるものだった。

 吉田健三が財を成したのは明治元年、英国から帰国し、横浜一番商館(英一番館)に事務所を構える英国の貿易商、ジャーディン・マセソン商会の支店長時代のことだ。大胆にドル相場を張った。山本は自伝の中でこう述べている。

 「相場といえば、叔父の吉田健三氏も、馬越(恭平)翁も、ドル相場をやって手本を示しているのである」

 「健三叔父や馬越支店長などがドル買いをするのを見て、見よう見まねで、小僧のくせに相場に手を出した」。猪木正道は「評伝吉田茂」の中で、健三の商才について「円貨がドルやポンドに対して値下がりすると、抜け目なく為替市場で大いにもうけていた」と記した。

 三井物産の初代社長、益田孝によると、明治初年における横浜ドル相場は大変な賑わい振りで、大手は田中平八(天下の糸平)や香港上海銀行のフィードンなどであったというが、彼らに混じって、吉田健三も大きな売買をやっていたようだ。細かい手口までは分からないが、ドル相場で大きな成果を得たからこそ、3年後に退職する時、1万円の特別賞与が贈られたのだろう。今の価値に直せば億を超す大金である。

 前出の馬越恭平は、三井物産の後、ビール業界に転じ、「ビール王」と称された。転身のきっかけは、吉田健三にご馳走になったビールの美味しさが忘れられなかったためともいう。

 ジャーディン・マセソン商会を辞めた健三は、醤油の醸造所を買収する一方、横浜の丘陵地を買い取り、宅地の造成に乗り出す。久我山一帯に1万3000坪の土地を購入し、開発したかと思えば、大磯に海水浴場を作ったのも健三だ。09年に焼失した大磯の吉田御殿は健三の遺産である。

 竹内綱が計画する事業は大き過ぎて失敗することが多かったが、吉田健三はやることなすこと、ことごとく当たった。

 健三の事業欲はとどまるところを知らず、東京日日新聞の創刊に参画、絵入自由新聞も創刊する。自由民権運動に加わり、自由党の結成にはまとまった金を出し、板垣退助が岐阜で遊説中に遭難した時は真っ先に駆け付けた。明治22年、39歳で永眠した時、11歳の吉田茂に遺された金は50万円にのぼった。そのころの富豪の資産、たとえば大倉喜八郎(70万円)、安田善次郎(60万円)に迫る額で、経済ジャーナリストの梶原英之は「事業家の資産は遺産にまとめれば減るものだが、健三の実業家としての実力は大倉、安田に匹敵していた」と述べている。

 健三には有名な蘇生譚がある。葬式の準備でごった返している時、眼をぱっちり開けて「たくさんの鳥や動物が突っついて、この世に追い返された」と語った。それから25日間生き延びたという。

=敬称略

(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)

信条

・吉田健三は遺産を茂にまとめるため、執念で蘇生し、2度死んだ。健三がいなければ茂の大宰相への階段は遠かった(梶原英之)

・国事に奔走する気概と真剣味で商売に取り組んだ(吉田茂)

・自分の遺言を公正証書として正式に作らせた点でも時代の先端をいった(猪木正道)

(よしだ けんぞう 1849~1889)

嘉永2年福井藩士渡辺謙七の長男として生まれ、16歳の時、大阪に出て医学を学び、慶応2年、英国の軍艦に便乗し欧米に遊ぶ。明治元年帰国、横浜のジャーディン・マセソン商会に入り、支店長として采配をふるい、同5年東京日日新聞の創刊に参画、同14年絵入自由新聞を創刊、自由党の結成にも加わる。同22年他界。この間友人の民権家竹内綱の息子、茂を養子に迎える。


<画像引用>

吉田健三(吉田茂養父)、佐藤一斎、山本条太郎、近現代・系図ワールド
http://kingendaikeizu.net/yosidakenzou.htm

独り善がりな東アジア共同体構想、それはアジア太平洋の国際政治を不安定にする(元韓国外交通商相尹永寛氏)2010/02/08 08:45

日経「経済教室」 独り善がりな東アジア共同体構想、それはアジア太平洋の国際政治を不安定にする(元韓国外交通商相尹永寛氏)


韓国・盧武鉉政権時代に米軍竜山基地の移転問題などをめぐって「自主派」が台頭。
米国との同盟関係を重視する「同盟派」の尹永寛外交通商部長官が更迭されるという事態にまで発展。

その尹永寛が日経「経済教室」に登場し、リアリストの立場で発言。
何やら素朴に東アジア共同体構想が域内の平和に寄与すると思っている人も多いようですが、実は全く逆の事態になる可能性があることを示唆しています。

軽々しい「友愛の海」の先には「混沌の海」が待っている。
最悪の場合、その先には「血まみれの海」が待っているということをわかっているのか。

独り善がりな東アジア共同体構想。それは戦前の独り善がりな大東亜共栄圏に通じる。
今一度、頭を冷やしてよく考えてみよう。


<関連記事引用(抜粋)>

日米安保50年鳩山外交を問う(4)元韓国外交通商相尹永寛氏(経済教室)終
2010/02/01日本経済新聞朝刊

 2009年8月の衆議院選挙で民主党が大勝したことは、自民党の従来の外交政策とは全く異なる新外交政策を打ち出す好機を鳩山政権に与えたといえる。鳩山首相にとっては、今はまさに自身の外交構想、すなわち米国とは別の自主路線の採用、中国や東アジアとのより密な関係の確立、米国抜きの東アジア共同体の構築などを実行に移すべきときなのだろう。おそらく首相は、グローバルな力関係が米国から中国へ大きくシフトし、日本は多極的な国際システムの時代に歩を進めると考えているのだ。

 だが鳩山政権の外交姿勢は、日本国内あるいはアジア太平洋域どちらの専門家から見ても、かなりあいまいである。そもそも民主党政権は、国際政治において日本がこの先めざす長期構想といえるものを明らかにしていない。たとえば過去20~30年間の日本の伝統的な外交政策は、台頭する中国との政治的経済的関与を深めつつも、米国との安全保障関係は維持するという具合に理解できよう。

 では現政権のアプローチは、これに近いのだろうか、それとも多少ちがうのだろうか。多少ちがうとして、具体的にどこがちがうのか。明確な答えはみえてこない。

 民主党の指導者が過去の外交政策とは決別する意図を持ち、たとえば安全保障の面でも米国と距離を置くつもりだとしたら、吉田茂政権下で確立した戦後の軽武装経済優先路線を破棄するに等しい対外戦略の大転換ということになろう。この場合には、2つの選択肢があると考えられる。一つは、日本が米中のバランサー、すなわち対米、対中で等距離に近い立場をとり、「均衡者」となる役割を果たすことであり、いま一つは、台頭する中国に接近することである。しかしどちらの選択肢も、それぞれに問題をはらむ。

 第一に、日本が米中のバランサーの役割を果たすとの選択肢は、理論的には可能だとしても現実には実行不可能である。米中の間で真に中立のバランサーとなるには、日本は米国の安全保障に依存せず自立する必要がある。すなわち再軍備し場合によっては核武装も辞さないことになる。2国のうち1国に安全保障を依存しながら2国間の中立のバランサーとなることはできない。この選択肢を取れば、日本は国際的にも国内的にも多大なコストを強いられよう。

 まず国際的には、国際社会からの強い反発にあうはずだ。国際社会では、核拡散防止はいまも世界が守るべき最も重要な規範とみなされており、とくに韓国と中国は、日本の核保有には強硬に抗議するだろう。また日本の再軍備は、東アジアの軍拡競争を激化させかねない。この意味で中国にとっては、自立した日本よりむしろ日米同盟に依存する日本の方が好ましいと考えられる。

 一方国内的にも、指導者は重大な政治的困難に直面するはずだ。最近行われた世論調査によると、日本人の約75%は日米同盟を支持している。とすれば、民主党政権は、第一の選択肢に基づく外交政策に対して国民の支持を得られるだろうか。

 第二に、日本が中国に接近するという長期戦略を選べば、今度は別の重大な問題が浮上する。この戦略は、米国が20世紀初頭からとってきた長年の東アジア戦略に真っ向から対立するからだ。米国の日本研究者の長老で歴史学者のケネス・パイル米ワシントン大学教授が述べているとおり、米国は東アジアで1国が突出して優位に立つことを防ぐべく、この地域でバランサーの役割を果たしてきた。

 日本が東アジア支配を狙って1930年代に中国を侵略したときは、米国が干渉し中国と手を組んで日本をけん制した。49年に共産党一党独裁の中華人民共和国が成立、中国大陸を支配するようになると、米国は今度は日本と同盟し中国の影響力に対抗した。米中の外交関係が正常化してからも、米国は日中間の微妙なパワーバランスを維持するよう努めてきた。

 近年になって米国の経済力が衰えたとはいえ、軍事力に関しては米国はいまなお超大国であり、今後もしばらくはこの地位を維持するだろう。したがって米国が東アジアへの積極的な関与とバランサーとしての従来の政策を打ち切ることはあるまい。

 鳩山首相が提案した米国抜きの東アジア共同体構想に、海外の多くの論者が不安を抱いたのは、こうした理由からだ。日本が中国に急接近すれば、東アジアは中国という強大な一国の影響下に置かれることになり、東アジアの戦略的関係にも世界の政治にも重大な変化をもたらす。日米同盟という戦略的な軸を失った米国は、東アジアへの関与を維持するうえで非常な困難を強いられることになろう。

 一方で、急速に膨張する中国のパワーに懸念を抱く東アジアの国々もまた、不利益を被ることになる。これらの国々は、米国の東アジア戦略の基盤となっていた日本が米国離れをすれば、そのすき間を米国との2国間関係の強化によって埋め合わせようとするだろう。また日米韓の3国協調関係も解体しかねない。今後も多難が予想される北朝鮮問題を抱える韓国は、米国との結びつきを一層強めたいと考えるはずだ。

 このように、東アジアにおける国際秩序は緊張の度合いを強め、対立的になると予想される。経済開発を引き続き最重要課題に据える中国の政治指導者は、東アジアの国際安全保障関係がこのように不安定になることを、果たして望んでいるだろうか。

 2010年以降の新しい国際政治環境において、米国と日本が冷戦時代のような保護者と庇護(ひご)者の関係を維持するのは、たしかに問題が多い。したがって、新しい政治環境により適した新たな制度的構造を構想し、安全保障協力の新しい形を模索することは、日米両国にとってのみならず、国際社会の他のメンバーにとっても重要な課題の一つといえよう。

 だがここでとるべきは、細やかで漸進的なアプローチである。将来に向けた明確な構想もなしに、既存の安全保障の枠組みを突如として一方的に解体するような試みは、日本の国益に反するうえ、アジア太平洋の国際政治を不安定にさせかねない。

 英国の昔の政治家が言った言葉に「新しい家を建てる前に古い家を壊してはならない」というものがある。(対米自主外交を唱えた)盧武鉉政権時代に外交通商相を務めた際、筆者が米国との同盟関係を最大限維持すべく努力を重ねたのは、この言葉を肝に銘じていたからである。

=この項おわり

 ユン・ヨングァン 51年生まれ。ソウル大卒、ジョンズ・ホプキンス大博士