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日本の保守、日本のリベラル、いよいよ始まる政界大ガラガラポン2010/01/28 08:57

毎日新聞:アメリカよ・新ニッポン論:「対米」揺れた戦後論壇 台頭する現実主義


日本における保守とリベラル。
その議論の叩き台としてお勧めなのが昨年6月に掲載された毎日新聞記事。
毎日ということもあって左目線が多少気になるところですが、気合の入った内容となっています。

この記事はこれからの日本政治を読み解く上でも極めて重要。

小沢一郎の議員辞職を引き金にまもなく戦後最大規模の政界ガラガラポンが起こる。
そんなことをやっている経済状況ではないのですが、政治家は能天気だからおそらくそうなる。

その結果、多少の混乱(一時的な「自民・民主」大連立など)を経ながらも保守とリベラルが真っ二つ。
「自民党=保守党」と「民主党=リベラル党」の2大政党に移行するだろう。

これぞ究極の政治家仕分け。
保守の応援団は産経、読売、日経。リベラルの応援団は朝日、毎日。
なんともわかりやすい構図になる。

注目はちょうど中間に立つ現実主義グループの動向。
従来どおり自民党が取り込めば自民は見事復活。しかし、これでは面白くない。

現実主義グループが第3の党を立ち上げれば、常にキャスティングボードを握る存在になる。
とはいえ現状求心力になる政治家がいない。
今や小泉政権や鳩山政権に象徴される派手なパフォーマンス(中身があるわけではない)を好む国民が大半。はたして支持されるのかという問題もある。

現実を見ずして政治家といえるのか。
日本政治の根底にある問題点が明らかになってきました。


<関連記事引用>

アメリカよ・新ニッポン論:「対米」揺れた戦後論壇 台頭する現実主義
2009/06/22毎日新聞朝刊

 アメリカの光と影は、戦後の日本を政治・外交・経済だけでなく、文化・思想・精神面でも深く規定してきた。米国に渡った多くの日本人が体験記を本にし、ベストセラーも少なくないのは、影響力の深さ、長さの表れだ。論壇におけるさまざまな潮流の移り変わりにも、それは特徴的にうかがえる。全面講和か片面講和か、保守・革新、理想と現実、護憲や国際貢献といった対立軸のいずれも、背景には常に親米・反米で割り切れないアメリカとの距離感、向き合い方があり、保守派や進歩派の枠を超えて複雑に絡まってきた。受容と超克の半世紀を振り返る。

 ◇反軍部、反共が源流 米から財政的支援―――戦後保守派

 戦後すぐの論壇で保守派とは、大正デモクラシーに由来するオールド・リベラリストたちのことだった。自由主義の立場から戦前、軍部も共産主義も嫌った人々だ。現在の保守派とは、相当に趣が異なる。

 初めは敗戦の年の暮れ、岩波書店が創刊した雑誌「世界」に集ったが、ほどなく進歩派と呼ばれる戦後リベラリストたちに同誌を明け渡し、発言の場を雑誌「心」に移す。共産主義との距離感が相いれなかったからだ。戦前の無産政党関係者や近衛文麿首相周辺の人々もいた。社会民主主義者が目立ち、やはり反共意識から進歩派と距離を置いた。彼らと「心」が、約20年後の雑誌「諸君!」に至る戦後保守派の源流となった。

 保守派が力を付けたのは、アメリカの財政的後押しがあったからだ。1956年、戦後初の本格的な保守系知識人団体として結成された「日本文化フォーラム」は、CIA(米中央情報局)が支援した反共知識人の国際組織「文化自由会議」の事実上の日本支部だった。アメリカのソフト・パワー戦略を担ったフォード財団は、同フォーラムに年間約2000万円の活動費を出していた。

 同フォーラムの機関誌的雑誌「自由」は59年創刊で、10年後に「諸君!」ができると、執筆陣の多くがそちらへ移った。

 ◇長く論壇の主流に 冷戦終結後は衰退―――――進歩派

 戦後の論壇は、長く進歩派が主流を占めた。その筆頭が、戦前の天皇制国家批判で華々しくデビューした東大教授の政治学者、丸山真男だ。

 丸山らは共産主義者ではなかったが、アメリカの冷戦戦略や反共主義に反対した。民主主義への抑圧と考えたからだ。そのため、アジア・太平洋戦争の講和問題でソ連など東側陣営を含めた全面講和や日本の非武装中立を主張し、60年安保の反対運動を日本における「民主主義の定着」と評価した。

 他にも、福田歓一や坂本義和ら東大法学部の政治学者が、次々にスターとして登場し、主として「世界」を舞台に活躍。大きな社会的影響力を誇った。だが、スター教授たちが長く君臨し、有力な後継者の出現が遅れる間に、後述する現実主義派の一群が台頭。安保闘争の次の全共闘運動からは、早くも「体制派」と批判されるに至り、市民レベルからの支持はともかく、現実政治への影響力は図のように次第に縮小し、主張も硬直化してゆく。さらに冷戦終結で、「反安保」を出発点とする進歩派の地盤は大きく崩れた。

 ◇「吉田ドクトリン」 自民政権ブレーン――――現実主義

 進歩派全盛の時代を転換させたのは、京大の国際政治学者、高坂正尭のデビューだ。「中央公論」63年1月号の論文「現実主義者の平和論」で登場した高坂は、当時注目されていた坂本の非武装中立論を、実現への現実性を欠いた理想主義として否定し、軍事的裏付けのある外交政策の必要性を説いた。

 神谷不二、永井陽之助ら政治学者、中国研究者の中嶋嶺雄ら新進気鋭の論客も、名編集者・粕谷一希の呼びかけで「中央公論」に論文を発表。現実に日本政府が選び得る国際政治の選択肢を示した。

 彼らの主張は、高坂のデビュー論文のタイトルから「現実主義」と名付けられた。この名称は、それまでの論壇が、必ずしも現実の政策に反映させられない議論しかできていなかったことをも示す。

 歴史の見方も変えた。高坂は、「反安保」を掲げる進歩派全盛の論壇で否定的に扱われてきた吉田茂を、戦後日本の礎を築いた人物として高く評価。永井は、軽武装・経済成長優先の路線を「吉田ドクトリン」と名付けた。

 日米安保容認というだけで論壇主流からは非難される時代だったが、当時の高坂は、安保の将来的な縮小も視野に入れており、アメリカべったりではない。憲法9条の価値は評価するなど、今日から見れば十分に「進歩的」だった。神谷の長男、神谷万丈防衛大教授は「日本の現実主義は、アメリカでのリベラルに相当する」と指摘する。

 現実主義者たちは佐藤内閣以降、楠田実首相秘書官の肝いりで、ブレーンとして政権に協力。大学紛争を収拾するため、69年度の東大入試中止といった実際に採用された政策提言を行った。

 自民党政権ブレーンとしての役割は、大平内閣や中曽根内閣などでも発揮され、こうした実績を通じ、現実主義派は論壇に大きな勢力を占めるようになった。

 80年代前半、現実主義派の中に意見の違いが目立ち始める。米ソ軍拡競争の再燃が新冷戦と呼ばれた時期。代表例が、「アメリカと共に防衛力を強化すべきだ」と訴える軍事的リアリストの岡崎久彦と「軽武装路線の維持」を主張する政治的リアリストの永井の論争(84年)だった。

 これは、現実主義者が一枚岩で進歩派に対抗する必要がないくらい十分な力を付けたから可能になったとも言える。ただ、進歩派の発言力も、政権への影響力は別にして、論壇では冷戦終結まで依然、大きかった。

 ◇あさま山荘事件―――――新左翼

 ◇対アジア強硬論――歴史見直し派

 終戦後しばらくは、「反戦の英雄」「革命の前衛」としての共産党が知識人の支持を集めたが、60年安保が大衆運動化していく過程で次第に影響力を失い、代わりに、より過激な主張をする新左翼系知識人が現れた。

 新左翼は72年のあさま山荘事件など暴力路線で自滅。若者の政治離れが進み、フランス現代思想の紹介者や高度消費社会を礼賛する人々が、「ポストモダン」と総称される新たな軸を作った。ただし、国際政治への関心は、湾岸戦争やイラク戦争で単発的に日米両政府を批判する他は、環境・人権などの地球規模問題に拡散しがちだ。

 冷戦後は、保守派の分裂も加速した。特に、従来の歴史教科書を「反日的」と批判し、「東京裁判史観」の克服、対中国・韓国・北朝鮮強硬論を訴える「歴史見直し派」の論者が、「諸君!」や雑誌「正論」などで支持を得た。それまでの保守派の主流を「親米保守」と批判する「反米保守」も、おおむねこの流れに位置付けられる。

 彼らは、首相の靖国神社公式参拝や教育基本法改正も後押しした。だが、特に東京裁判批判は戦後日本、ひいてはそれを支えたアメリカの否定につながり、国際政治の力学から見れば、現実的とは言い難い主張もある。反米色の強さは、思想図的には正反対に位置するはずの60年安保の左派と共通しているとの指摘もある。人脈も一部が重なる。

 湾岸戦争以降は、イスラム文化圏の地域研究者も発言力を増した。この分野は従来、パレスチナ問題などで反米的な主張の人が多かったが、近年は現実主義的な分析、提言をする学者が注目されている。

 ◇コンプレックスは減退--中西寛・京都大教授(国際政治)

 戦後論壇にはずっと、日米同盟を重視しながら心情的に反米の人も、その逆の立場の人もいた。たとえば、現実主義者の永井陽之助は60年代から日米安保の重要性を説いたが、アメリカに対してかなり批判的だった。逆に進歩派の中でも、小田実のようにアメリカ好きは多かったかもしれない。

 ただし、進歩派が好きなのは、民主的で平和主義のアメリカ。アメリカ政府に対しては、軍事に傾きすぎており、日米安保はその一環だと批判した。

 この親米と反米のねじれは、太平洋戦争の終結の仕方に根があると思う。日本政府は降伏交渉を主体的に始められず、ポツダム宣言や原爆投下の末に降伏した。さらに、アメリカは占領初期に左派的改革をした。

 そこで左翼は、占領から生まれた戦後体制に基づいて、保守政治や冷戦を批判してきた。

 他方で保守は、冷戦開始以降の反共主義的アメリカとの協調を基盤として凝集性を保ってきた。

 だから保守派には、アメリカとの価値の共有を主張する論者を含め、アメリカ的価値を体現したはずの戦後体制に本音では批判的な人が多い。彼らが戦後体制を受け入れたのは、冷戦下で必要に迫られたからだ。

 政治家では、たとえば吉田茂がそうだ。彼が親米を決断したことは、戦後の世界情勢を考えれば高く評価できる。だが、この選択肢はあまりにも成功しすぎた。吉田がアジアの旧植民地との関係にあまり悩まされなかったのも、アメリカの冷戦政策に頼ったからである。しかしこれが、歴史問題などを今まで引きずる一因となった。

 安保を改定した岸信介は、憲法改正と独自のアジア外交で吉田路線を変更したいと思ったのだろうが、アメリカはこれを懸念した。何よりも、国内に吉田路線支持でコンセンサスができており、果たせなかった。

 アメリカとの複雑な関係の源流は、ペリー来航にさかのぼる。来航による開国を、福沢諭吉のような人は文明開化のきっかけと評価した。彼らが明治体制の主流をなす一方、この圧力に反発する人は、アジア主義者のように侵略者アメリカからアジアを守ろうと考えた。

 長い目で見れば、日本のアメリカコンプレックスは減退している。同盟は今も重要だが、経済関係は薄くなってきている。徐々に、アメリカとの関係は、20世紀ほど決定的なものではなくなるのではないか。(談)

 ◆劇作家・評論家、60年代に留学体験 山崎正和さん(75)に聞く

 ◇米国は「可能性の泥沼」――組むほかないと思った

 ――山崎さんは、60年代にアメリカへ留学して、体験記を記した代表的な知識人のお一人です。

 まず1964年、フルブライトの特別研究生として留学しました。ほぼ同時期に、高坂正尭、江藤淳、小田実も留学しています。当時は、豊かで自信に満ちたアメリカが残っていた。空港ではスプリンクラーが芝生の上で回っていて仰天。コーヒーもアイスクリームもステーキも、タダみたいな安さでした。奨学金は月450ドルです。日本では6000円なのに。

 ――現地で「自分もアメリカ人になれる」と感じたとか。

 留学の後半、ニューヨークで自分の芝居を上演しました。帰国する際、ホテルのメイドのプエルトリコ人に、「芝居が成功したのに、なぜ帰るのか」と驚かれた。彼女は、すべての人がアメリカ人になりたいのだと信じている。ところが、この変な日本人は、せっかくこれからブロードウェーで活躍できるはずなのに帰る。私も一瞬、「日本で細々と芝居を書くより、ここでアメリカ人としてやった方がいいのかな」と思った。

 アメリカは「可能性の泥沼」でした。いろんな財団に片っ端から申請すれば、芝居に補助金が出る。私の教授も1000ドルをくれた。あきらめなければ「もうダメ」のサインが来ずに、次々と小さな可能性が現れるのです。

 ――その後は?

 60年代の後半、エール大に教師として行きました。反戦運動やヒッピーで、一種の無政府状態でした。さらに70年代の前半も半年間いました。このときのアメリカ社会は病み上がりの時期。3回の滞米で、どん底の入り口と出口を体験したわけです。よくもめますが、その後、必ず進歩する国なんですね。

 私は哲学科出身で語学もドイツ語でしたから、特にアメリカに興味はなかった。しかし、留学でこの国が文化的に相当なものだと知り、自分はアメリカ人になれるとも思えた。こんな国は他にない。そして、日米の関係をごく自然に感じた。アメリカが国として生まれつき開かれているからです。

 ――60年代の日本の論壇状況は?

 当時の私は、高坂さんや永井陽之助さんら「現実主義者」の一人でした。私たち以外は、論壇のほぼ全員が進歩的文化人です。「中央公論」の粕谷一希さんが、2カ月に1回くらい、私たちを集めて議論や情報交換をしました。ただし、私たちは相談して一派を作ったわけではない。なぜこの立場を取ったのか話したこともない。私の場合、高校で学生運動をして共産主義のおかしさを知り、アメリカと組むほかないと思った。留学も、この考えを支えたのは間違いありません。

 ――現実主義者は、佐藤栄作首相の秘書官だった楠田実によって首相のブレーンにもなりました。

 彼が、アメリカのような学者と政治家の交流をやろうと考え、私たちをブレーンにした。たとえば、佐藤首相の「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって戦後は終わらない」という名言。もし返らなかったら首相はクビですよね。だから、あの発言をすべきかみんなで議論した覚えがありますよ。

 ◆見聞録にみる「米国観」の変遷

 ◇圧倒的な磁力

 アメリカ見聞録の歴史から、戦後日本のアメリカ観の変遷が見えてくる。戦争で完敗した相手に、民主主義のお手本を学びに行った1950年代。60年の日米安保条約改定以降は、圧倒的な影響力を何とか相対化しようともがいた。

 阿川尚之慶応大学総合政策学部長(58)は、87年に米国の法律事務所に就職するため日本を離れる時、父の作家、阿川弘之氏(88)から「米国にずっといると日本の山とか森が懐かしくなるぞ」と忠告された。尚之氏は高校時代にホノルル、大学でもワシントンに留学。息子が米国の魅力に引きつけられたまま日本に帰ってこなくなるのではないかと心配したのだ。

 弘之氏は若い海軍将校として対米戦争を過ごした。広島出身で被爆をテーマに小説も書いている。だが、55年にロックフェラー財団の招きで訪米し「1年弱で、すっかり米国にかぶれてしまったらしい」(尚之氏)という。

 高校を卒業してすぐ65年から4年間、カリフォルニアのイチゴ農場で働いた経験を「ストロベリー・ロード」で描いた作家、石川好氏(62)は、米国を目指して世界中からあらゆる人種が押し寄せるのを見た。「米国から見れば世界には2種類の人間しかない。米国人と、これから米国人になる人間。だれでもいつでも手続きをすれば米国人になっていいと言われる」。強い理想を世界中に放射するまぶしい国だった。

 ◇保守の屈折

 岸信介首相が「日本の自主性の回復」を唱えた60年安保改定で、反対運動に参加した評論家、江藤淳(32~99年)は、62年にロックフェラー財団の招きで渡米。帰国後、著書に「さらにもう一年というふうにのこりつづけていたら、うっかりすると米国人になってしまう」と恐れを記し、以後、長く米国への反発を抱え続けた。

 著書「米国の影」で江藤のトラウマを論じた加藤典洋早大教授(61)は「江藤は戦後日本を米国のパートナーとして受け入れてもらいたかったが、米国に住んで目標としての米国と現実の米国が全く違うと気づいた。このまま成長しようと思ったら、敗戦国としての日本という天井をのけるか、自分のクビを曲げるか、という問題に孤独にぶつかり、苦しんだ」と言う。

 77年に渡米した評論家の西部邁氏(70)は、体験記を「アメリカ兵に銃をつきつけられた」占領体験から語りだし、「戦後に育った人間には、洗っても洗っても消えない体臭のように、アメリカ的な要素がしみついているのかもしれない」と自らを分析。「反米」で知られる西部氏にも、米国には振り払えない重さがあった。

 ◇消えた気負い

 冷戦終結後、アメリカ見聞録は急速に減る。ベルリンの壁崩壊の89年は、三菱地所がニューヨークのロックフェラーセンターを買収し、日本が米国の豊かさを気に掛けなくなった年でもある。

 有吉玉青氏(45)は同年、母で作家の有吉佐和子の思い出を刊行した後、91年にニューヨークに留学。滞在記は「あらもう書くことが何もない。(中略)最後の頼みのようにして、ニューヨーク行きを思い立った」とある。問題は日本からの脱出で、行き先の米国ではなかった。

 「米国に追いついた」と思った日本人は、米国を鏡にして「米国で変わった私」を語らなくなったが、石川氏は「米国をモデルにすることは終わったが、では、代わりに行く国もない。国の安全保障を頼る米国との関係は整理できているわけではない」と話す。

 この特集は、伊藤智永、須藤孝、鈴木英生が担当しました。

 ■ことば

 ◇思想の科学

 鶴見俊輔、丸山真男、都留重人、武谷三男、武田清子、渡辺慧、鶴見和子の7人が1946年に創刊した雑誌。創刊メンバーは、戦前のアメリカに留学し、太平洋戦争開戦後の「交換船」で帰国した人が多かった。生活者としての大衆に注目し、神道家の葦津珍彦の文章を載せるなどの幅もあった。96年休刊。

 ◇若い日本の会

 60年安保反対運動のため、若手の作家や芸術家らが結成。労働組合など従来の運動体と違い、指導部や綱領がなく、「五人寄れば五人が、五十人寄れば五十人がこの会の会員である」(江藤淳)という、後のべ平連を連想する組織原理を持った。主要メンバーは、江藤をはじめ、後に保守化する人も少なくなかった。

 ◇平和・安全保障研究所

 安全保障問題の政策提言をするため、1978年、防衛庁(当時)と外務省を主務官庁に設立。学者と官庁の担当者、自衛隊制服組が交流して政策を研究。若手研究者の育成にも携わる。初代理事長は元防衛大校長の猪木正道。現理事長は西原正前防衛大校長、会長は増田信行三菱重工相談役。

 ◇民間政治臨調

 正式名は政治改革推進協議会。東大教授(当時)の佐々木毅ら大学教授、財界や労働界、マスメディアの幹部らが92年に発足させた。衆院の小選挙区制導入や政権交代可能な2大政党制成立に影響を及ぼし、地方分権、行政改革などでも提言をした。99年以降、新しい日本をつくる国民会議(21世紀臨調)に活動を引き継ぐ。

■写真説明 ※丸数字を付した人物は複数回登場。数字は経年順に何回目の登場かを示す。黒地白抜きの数字の人は、リベラルから保守派に移るなど、再登場の際、以前と別の潮流に属している ※関係や流れを大きくとらえることに主眼を置き、人物の位置や人脈などは一部大胆に図式化した。たとえば現実主義の潮流の中には、図の位置の左右と実際の思想傾向にずれがある人もいる。また、「新しい歴史教科書をつくる会」は元メンバーらを含む

週刊文春最新号 小沢を逮捕 容疑は「所得税法違反」だ!2010/01/28 10:45

週刊文春最新号 小沢を逮捕 容疑は「所得税法違反」だ!


親しい税理士さんの見解によりますと・・・、

小沢一郎は「まっくろくろすけ」です。


<画像引用>

週刊文春2月4日号
http://www.bunshun.co.jp/mag/shukanbunshun/

<関連記事>

検察の狙いは金丸モデルで小沢の脱税逮捕?
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/01/17/4819359

検察の狙いは金丸モデルで小沢の脱税逮捕?(2) ついにマルサ動く
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/01/25/4837660

検察の狙いは金丸モデルで小沢の脱税逮捕?(3) ついにマルサ動く 週刊ダイヤモンド最新号を読む
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/01/26/4838658

塩爺直言 「小沢支配」で独裁国家に 自民よ、返り血恐れず戦え この際、国税庁が査察をかけろ
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2010/01/26/4839546

爆笑ダンカイ星人 「僕ちゃん大賞」発表!2010/01/28 22:50

爆笑ダンカイ星人 「僕ちゃん大賞」発表! 「僕たちのアンポ反対」(北海道新聞)


<今月の最優秀賞(画像引用)>

「僕たちのアンポ反対」(北海道新聞)
http://blog.hokkaido-np.co.jp/ten/archives/2010/01/post_354.html


決め手となったのはやはり寺島実郎が登場していること。
あまり大きな声では言えませんが、新聞社やテレビ局周辺にはこういう人がまだまだいます。
そして、鳩山ダンカイ政権をヨイショと持ち上げる。

それにしても「独立国に外国の軍隊が長期にわたり存在し続けることは異常」の寺島節は今なお健在。
だったらそろそろ憲法九条改正、本格的再軍備、徴兵制復活にも言及したらどうなんだ。
それがないと中途半端に夢見る子供にしか見えない。(注、私は護憲派です)

皆様お勧めのダンカイ大賞作品もお待ちしています♪