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桜井茶臼山古墳、大量の赤色顔料「水銀朱」は権力の象徴か2009/10/23 00:41

桜井茶臼山古墳、大量の赤色顔料「水銀朱」は権力の象徴か


学生時代の遺跡発掘調査の経験から、「日本を知りたければ水銀朱を追え」が私の持論。
その水銀朱が今日のニュースの主役。

水銀朱を追えば、ヤマト王権に神社に曼荼羅、そして山師・空海のことも解ける。
神社の多くは「この水源とったどー!、この水銀鉱とったどー!」という旗印のようなもの。

時の権力と結びつき、中国も巻き込んだ熾烈な奪い合いがあったはず。
資源ナショナリズムの原点が水銀に見出せる。

そして、三井のルーツにも伊勢の水銀あり。これが実におもしろい。


<関連記事引用>

石室の大量の水銀朱は権力の象徴 桜井茶臼山古墳で確認(画像引用)
2009.10.22 19:56
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091022/acd0910221957009-n1.htm

 初期大和政権の大王クラスの墓とされる前方後円墳、奈良県桜井市の桜井茶臼山古墳(全長約200メートル、3世紀末-4世紀初め)で、被葬者を納めた竪穴式石室の全面が大量の水銀朱で赤く塗られていることが分かり、県立橿原考古学研究所が22日、発表した。水銀朱の総重量は約200キロと推定され、国内の古墳で確認された量としては最多。

 水銀朱は当時、不老不死の薬ともされており、研究所は「貴重な水銀朱を大量に使って、権力の大きさを示したのでは」としている。

 竪穴式石室は長さ6・75メートル、幅約1・2メートル、高さ約1・6メートルと判明。内部には、木棺(長さ4・9メートル、幅75センチ)の底板がほぼ当時の状態で残っていた。石室の壁は、一辺50~60センチ大の板状の石材数千枚を積み上げて構築。石材のほぼ全面に水銀朱が塗られていた。水銀朱は、大和(奈良県)で多産した辰砂(しんしゃ)という硫化水銀の鉱物を粉状にすりつぶして水に溶かしたのち、石材に塗ったとみられる。

 国内の古墳で使われた水銀朱はこれまで、大和天神山古墳(奈良県天理市)で確認された42キロが最多とされていた。

 桜井茶臼山古墳は昭和24~25年に発掘調査されているが、研究所が石室構造などの解明を目指し再調査していた。

 現地見学会は29~31日の連日午前10時~午後3時に行われる。

     ◇

 古代の人々はなぜ「赤」にこだわったのか。「死者の魂をよみがえらせる」「権力の象徴だった」-。研究者たちは、王者の眠る神聖な空間にさまざまな思いをはせた。

 桜井茶臼山古墳が築かれた時代に中国で流行した神仙思想についての解説書「抱朴子(ほうぼくし)」(317年成立)には、「丹」(=水銀朱)について「飲めば不老不死の仙人になれる」と記されている。

 森浩一・同志社大名誉教授(考古学)は「純度の高い水銀朱が使われており、不老不死を強く願った被葬者の姿がうかがえる」と指摘。河上邦彦・神戸山手大教授(考古学)も「血の色を思わせる水銀朱によって、死者の再生を願ったのではないか」と推測した。

 一方「抱朴子」には「仙薬(仙人になるための薬)のうち、最上のものは丹砂(=水銀朱)。次は黄金」と記載。和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(古代史)は「金よりも貴重とされた水銀朱が、200キロも使われていたとは」と驚く。

 和田教授によると、水銀朱の産地候補の一つは奈良県宇陀市付近。この一帯は、昭和後期まで水銀を採掘する鉱山が点在した国内有数の辰砂の産地で、桜井茶臼山古墳やこれまで最多の出土量とされていた大和天神山古墳とも近く、和田教授は「大和政権の成立を考える上で水銀朱は重要な要素になるだろう」と話した。


<関連記事>

NHKニュース 石室に赤い顔料が大量使用(ビデオあり)
http://www.nhk.or.jp/news/t10013297821000.html

桜井茶臼山古墳:石室全面に赤色顔料「水銀朱」 奈良
http://mainichi.jp/enta/art/news/20091023k0000m040039000c.html

全面朱塗りの石室出土 大王の墓?奈良・桜井茶臼山古墳(画像引用)
http://www.asahi.com/national/update/1022/OSK200910220095.html

水銀朱で魔よけ、桜井茶臼山古墳の石室公開
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20091022-OYT1T00980.htm

茶臼山古墳、石室豪華な朱一色、60年ぶり再発掘で発見
http://www.nikkei.co.jp/news/main/im20091022AS5C2202D22102009.html

空海と曼荼羅と水銀朱
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2008/07/20/3639282

堂(タン)と御嶽(うたき)と聖なる森2009/10/23 09:16

「原始の神社をもとめて―日本・琉球・済州島」岡谷公二 (著)


<関連記事引用>

出版:『原始の神社をもとめて』 著者・岡谷公二さんに聞く
2009/10/22毎日新聞朝刊

 日本の神社はいかにして成立したのか?――。この興味の尽きない課題に新しい切り口で迫る『原始の神社をもとめて』(平凡社新書・924円)が出版された。副題に「日本・琉球・済州島」とあり、朝鮮半島文化との関係に大きく踏み込んでいるのが刺激的だ。著者の岡谷公二・跡見学園女子大名誉教授に聞いた。【伊藤和史】

 ◇「堂と出合ってますます複雑に」

 「堂(タン)と御嶽(うたき)が、まさかこんなに似ているとは思わなかった。感動しましたね」

 2002年、朝鮮半島の南に浮かぶ韓国最大の島・済州島で、初めて堂を見た印象を岡谷さんは生々しく覚えている。

 「堂」とは、耳慣れない言葉だ。数本の大木がこんもりと茂った韓国の聖地のことである。一方、御嶽とは沖縄の聖地。こちらも南島の常緑樹が茂る森で、森の中の空き地にはサンゴ礁の白砂が敷かれ、祭りが行われる。本土の神社に相当するが、社殿はおろか、鳥居などの人工物がまったくないところもある。

 その堂と御嶽がそっくり。

 「堂も建物が少なく、あっても控えめ。女性がお祭りをするところまで同じなんです」

 岡谷さんは1961年、初めて御嶽を訪れた。「人工のさかしらが一切ない。何もない方が神と直接向かい合えるんです。社殿などは、雨風をしのごうという人間の都合で生まれたもの。信仰にとっては堕落でしょう」

 最初の感激はさめることなく、岡谷さんは、御嶽の何もつくらせない力こそが日本人の精神の原点と考えてきた。

 こうした特徴はもともと本土の聖地でも同じだったが、仏教の影響で社殿がつくられるようになり、沖縄に古い形が残った――これが定説でもある。

 ところが、最新の研究や遺跡の発掘成果によると、少々様相が違ってきた。

 沖縄では12世紀以前の歴史がはっきりしない。だが、どうやら平安末~南北朝時代前後に本土から人と文化が流入し、御嶽の元になる信仰も入ってきたようなのだ。だが、そのころ、本土ではすでに神社は社殿をもち、神主も男性に変わった。

 御嶽の信仰が本土由来だとした場合、社殿をつくらない、女性が主体といった御嶽の信仰の実情の説明がつかないのだ。

 この難問に直面したとき、岡谷さんが出合ったのが済州島の堂である。

 「朝鮮半島に『堂』があることは知っていた。でも、神樹の信仰はあっても森の形をなしていることは少ないし、だいたいは堂舎があって、祭祀(さいし)も儒教風に男性が行うと聞いていて、重視しなかった。ところが済州島は違いました」

 済州島にももちろん儒教は入っているが、影響は比較的弱かったらしい。女性の手によって、なんとか堂の祭りが維持されてきたという。

 こうして神社や御嶽の成立を考えるうえで、朝鮮という新しい要素が加わった。日本に最も近い韓国である済州島と琉球との意外なまでの密接な交流ぶりや、信仰の類似性に肉迫してゆく過程はスリリングで読み応え十分。同時に、こうした記述はタブーへの挑戦でもある。

 「神社は日本のものだという考えは、戦前はもちろん戦後も根強いですからね」。本書では、神社をめぐるもう一つのタブー、「神社の前身は墳墓か」という問題にも踏み込んでいる。清浄を至上とする神社にとって、死のケガレはもっとも忌むべきこと。タブーなき議論は、この本の特に痛快なところだ。

 とはいえ、神社と御嶽の間に堂を置いたとしても、すぐに全体の成立事情が解明できるほどに簡単な問題ではない。どちらがどう影響を与えているのか、その方向が一方通行のはずもなければ、時期も単純ではなく、すべてが今後の課題だろう。

 「堂と出合って、ますます一筋縄ではいかない複雑な問題だと思うようになりました。でも、御嶽と神社だけが並んでいたところに堂が加わって、解決の気配が出てきた。沖縄などの南島と済州島、それに九州の西部は古代には同じ文化区域だったと思う。このことを視野に入れない限り、日本の神社のことはわからないでしょう」

 ◇暖流沿いの聖地の森

 御嶽のような社殿なき聖地の森は、日本では沖縄以外にもある。その分布が興味深い。

 沖縄のほか奄美大島、種子島、対馬、壱岐、山口県の蓋井(ふたおい)島、島根県の西石見、福井県・若狭湾の大島半島と、明らかに対馬暖流に沿った地域に点々と存在している。みだりに入ったり、木を切ったりしてはいけないというタブーも似ている。

 ただ、済州島に最も近い五島列島にはこの種の森が見つかっておらず、岡谷さんも今、大いに気になっているそうだ。

 ■人物略歴

 ◇おかや・こうじ

 仏文学者・美術史家。1929年東京生まれ。画家・ゴーギャンや民俗学者・柳田国男に関する著書のほか、御嶽や神の森の考察として『神の森 森の神』『南の精神誌』など。

<関連書籍>

「原始の神社をもとめて―日本・琉球・済州島」岡谷公二 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E5%8E%9F%E5%A7%8B%E3%81%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%82%92%E3%82%82%E3%81%A8%E3%82%81%E3%81%A6%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%BB%E7%90%89%E7%90%83%E3%83%BB%E6%B8%88%E5%B7%9E%E5%B3%B6-%E5%B9%B3%E5%87%A1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%B2%A1%E8%B0%B7-%E5%85%AC%E4%BA%8C/dp/4582854885/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1256227139&sr=1-1