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中国解剖:「徐福」で悪酔い羽田孜?2009/08/20 07:54





日本徐福会名誉会長の羽田孜は秦朝・徐福の後裔だと自称している。
これまた夢か幻か。羽田の悪酔いに過ぎないのか。
結局、日中友好は中中友好ということか。

それでも羽田は日本人。日本人というものの奥行きを知ることができる。
むしろ、今流行の「理屈じゃないのよ、嫌中は」の軽さの方が余程問題です。



<関連記事引用>

▼日中で「徐福」へ関心高まる(取材ファイル)
1991/06/18朝日新聞夕刊

 不老不死の仙薬の探索を始皇帝に命じられ、童男、童女数千人を連れて東海へ旅立った――と史記にも記録された中国秦代の仙術士「徐福」への関心が、最近、日中両国で高まっている。2年前、中国江蘇省で徐福村が発見され、「徐福は伝説上の人物ではなく、実在したのでないか」と話題にされたのが騒ぎのきっかけ。

 昔からある日本渡来説も再燃し、著書や論文が次々と発表されだしたのをはじめ、この5月には、関心を寄せる作家や地方史家たちの発案で、全国組織の「日本徐福会」(東京都中央区日本橋茅場町2の14の1、第1井上ビル503)も発足。これが人民日報や文匯報で中国に報じられたり、日本各地の徐福上陸伝承地の自称「子孫」たちが続々参加を申し込んで情報を寄せたりするなど、ちょっとしたフィーバーぶりを見せている。

 「徐福会」の発起人には巌谷大四、尾崎秀樹、早乙女貢氏らのほか、瀬戸内寂聴、陳舜臣、梅原猛、駒田信二、岡本好古氏ら60人以上が名を連ねているが、音頭をとったのは「徐福―弥生の虹桟」の著書もある飯野孝宥さん。「歴史研究の学術団体ではなく、紀元前3世紀の夢とロマンを追う大人の懇親団体。秋には中国徐福村の訪問なども計画中です」と、論議の高まりを期待している。

 徐福を巡る伝承や記録は日中双方に昔から数多くあるが、それを要領よくまとめて紹介した本も最近出た。逵志保(つじ・しほ)著「徐福伝説考」(一季出版)で、これは大学での卒論が認められて出版されたものという。ブームとは離れた冷静な筆運びが好評を呼んでいる。


▼首相訪欧メモ/ 「祖先も日本のかじとり」 政権運営に決意も新た
1994/05/04中日新聞朝刊

 就任早々、訪欧の途についた羽田孜首相は、ローマへ向かう機中で、持参した飯野孝宥著「弥生の日輪」を読み返しながら、羽田家の先祖につながるという“秦徐福伝説”を秘書官らにひとくさり。

 二千二百年前、日本にあると言われていた不老の薬を、秦の始皇帝に献上するため来日したのが徐福で、羽田家はその末えいとか。この本には「秦氏は血の気の多い行動派の名門で、大乱になると必ず表舞台に躍り出て、日本の進路を変えてきた」とも記されている。首相はこの本に、自筆で「温故知新-二千二百年前をたどって、訪欧の途次記す 羽田孜」と書き込んで、訪欧と政権運営にかける決意を胸に刻んでいた。


▼外資導入で発展する浙江省
2008/07/02鉄鋼新聞

中国沿岸部で上海に程近い浙江省。省都の杭州市は人口643万人、ほかに560万都市の寧波市や330万都市の嘉興市を有する大都会で工業も盛んだ。外資系企業が多く進出しており日系企業では医療機器メーカーのテルモや食品のキューピーが工場をおいているほか、東芝や松下電工などの総合電機メーカーも生産拠点を構えている。文化面でも日本との関係が深く、曹洞宗の開祖道元が修行した天童寺があり、秦の始皇帝の命で日本に渡来した徐福が出港した地としても有名。産業に加え観光事業にも力を入れており、昨年4月には中国の揚子江流域で最も古い城跡が見つかるなど見所も多い。浙江省旅游局と全日空の協力で現地を取材する機会を得たので、躍進を続ける浙江省の今をリポートする。(古瀬唯)

日系企業の戦略拠点

日本からも多数の電線メーカー進出

浙江省は東シナ海に面し、面積は約10万平方キロメートル。人口は5060万人で一人当たりのGDPでは4883ドル、中国で上海、北京、天津に次ぐ4位となっている。非金属鉱物を中心に地下資源が豊富で、セメント用の凝灰岩や蛍石などの埋蔵量が多い。

電線関連のメーカーの進出状況は、昭和電線HDが富陽市に杭州富通通信技術股分、杭州富通昭和線纜配件を置いて光通信ケーブル、電子ワイヤを生産するほか、嘉興市の嘉興昭和機電で機器用のハーネス事業を展開。古河電工グループの東京特殊電線は、平湖市に現地法人の東特(浙江)でエナメル線やフレキシブルフラットケーブルなどの電子材料を製造している。

省都の杭州市では、ワイヤハーネス首位の矢崎総業が自動車向け計器や部品を製造。関西系のハヤカワ電線工業もハーネスを生産する。

産業の誘致に力を入れており、93年から国家プロジェクトとしての開発区を杭州に設置。様々な優遇政策を行っており、世界各国の情報電子、医薬品企業が工場を構える。日系企業では東芝が世界に輸出するノートパソコンの大多数を生産する東芝情報機器杭州社を建設、松下電工が白物家電の製造拠点として27万平メートルの松下杭州工業団地を造成するなどグローバル展開に向けた戦略拠点がある。

工業製品の輸出が非常に活況で、06年度の海外への販売額は前年度比31・4%増の1009億ドル。電化製品、衣料品、ハイテク製品、携帯電話などが中心で日本は相手国としてアメリカに次ぐ第2位にある。

杭州湾大橋開通2100億円国家事業

経済規模が拡大する中、インフラの整備も盛んでおり、5月には杭州湾跨海大橋が開通。寧波市から嘉興市を南北36キロメートルで結び、上海から寧波市までの距離は360キロメートルから、240キロメートルまで短縮された。

大橋は総工費約2100億円の超大型事業で35%を寧波市の民間企業が出資、残りの65%を中国の政府系銀行が融資した。耐用年数は100年で震度10の揺れにも対応できる。上海との経路が短くなったことで浙江省に進出する企業の物流面でのメリットが大きくなっている。

全長36キロメートルは、アメリカ、ルイジアナ州のポンチャートレイン湖にかかるゴーズウェイ大橋の38・4キロメートルに次ぐ世界2位で海に架かる橋としては最長。上海万博を睨んで観光資源としての役割にも期待が集まっており、開通から3日で約100万人が訪れた。道路は全6車線で、最高時速は120キロメートル。フォルクスワーゲンやBMWといった欧州車やトヨタ、ホンダなどの日本車の往来も多い。

杭州市の杭州蕭山国際空港から寧波市の大橋までの道のりでも自動車の通行が活発で、砂埃が舞う道路を旧式のオート三輪や高級車などが混在して行きかっている。現在、自動車の普及台数は200万~250万台。農村部ではまだ高級品だが、裕福な自営業者を中心に1日300台のペースで販売が進んでいる。これまで自動車メーカーは現地資本と海外企業の合弁会社が中心だったが、ここに来て中国のメーカーも成長している。

自動車の普及に加え、郊外には新築の戸建住宅も多いほか、山を切り崩しての造成や工場建設も活発。道中では露出した山肌が多く見られたほか、工事現場、建築部材を扱う金属問屋などが軒を連ねる。隅々まで急速な発展の「過渡期」を感じられる浙江省。鉄鋼、非鉄関連とも有望な市場として、また新たな生産拠点の候補地として決して目を離せない。

観光事業にも注力

観光資源も豊富道元らゆかりの地

約500社の外資系企業を擁し工業が盛んな浙江省だが「文化の都、絹茶の里、観光勝地」としても有名。観光客の誘致にも力を入れており、06年度は国内から1億6千万人海外から427万人が訪れている。特に省都の杭州は「天に極楽あり地上に杭州・蘇州あり」と言われるほど風光明媚。その人気は国内でも強く中国人が住みたい町で第1位を獲得するほどだ。

同省には日本と関係の深い観光地が多く、寧波市には曹洞宗の開祖である道元が1223年に修行した天童寺がある。4世紀に建立された歴史ある寺院で、荘厳な雰囲気。高さ18メートルの巨大な弥勒菩薩や韋駄天などの仏像が並ぶ。現在も多くの出家者が在籍し、朝の3時半から夜の11時まで厳しい修行に励んでいる。最盛期には1千人を越える修行僧がおり、巨大な青銅製の鍋で1千人分150キログラムの粥を作っていた。

道元に加え、水墨画の巨匠、雪舟も天童寺で学んだ一人。1467年、雪舟47歳の時に同寺に入った。その後、精進を続けて高僧のとなり「天童寺の第一座」と呼ばれ敬われたといわれている。広大な敷地に多くの仏閣が並んでいるが現在も増築が進んでおり7階建ての千仏塔が建設中だ。

日中交流架け橋徐福出港の地

同省は紀元前210年、秦の始皇帝に不老長寿の薬探しを命じられ、三千人の童子とともに日本に渡った歴史上の人物徐福が出港した地としても有名。海を望む慈渓達蓬山にはテーマパークの徐福文化園がこの6月にオープンしている。

山に作られたテーマパークの麓には、釈迦の巨大な足跡が石に残るといわれる仏跡寺がある。徐福は佐賀県に流れ着き当時の日本の文化水準を高めるために貢献したとされており、徐福像の開幕式には日本から羽田孜元総理大臣も出席し、日中友好を祈念した。

山頂には3千人の童子たちが船旅の無事を祈った祈求壇と呼ばれる中国建築の建物を再現。出港する際の無事を願った神事を再現するため青銅製の祭器を置いている。祭器は始皇帝が全国を行脚した際に立ち寄った句省県から持ち帰ったもののレプリカ。船出の時期と伝えられる5~6月には徐福祭りを開催する予定で、テーマパークは年間30万人の入場が予想されている。

文化的に日本とゆかりがある浙江省。日本人に対するイメージも良く、寧波市旅遊局の陳民憲副局長は「家電など電化製品を通して、日本という国に親しみを感じている人が多い。こちらでは日本人は皆勤勉という印象。寧波市は歴史の町、仏教の町として知られ、開放的な風土もある。多くの日本人を受け入れていければ」と期待を膨らます。

日本との距離縮まる

揚子江文明の城跡世界遺産に申請

歴史の面では4千年~5千年の歴史を持つ良渚文化があり、杭州市北部の博物館では出土した玉石の装飾品が並ぶ。玉石は権力の象徴とされており、豪族の墓から見つかっている。その手の込んだデザインには目を見張るばかりで文明の高度さに圧倒される。当時は石器で畑を耕しており、稲作も行われていたという。

良渚文化はこれまで古墳のみの文明と考えられてきたが昨年4月には幅60メートル、長さ1700メートルに渡る城壁が発見され、5千年前に城を中心にした国家が存在したことが実証された。中国では黄河文明では城跡が見つかっていたが、揚子江の流域での発見は初。20年来の歴史的な発見として現在、中国は世界文化遺産に申請を行っている。

出土した城壁は高さが4メートル。最初に発見されたものは西側の壁面で、城を囲むのは全長1700メートル×1900メートルの長方形のものと見られている。今も発掘作業が進んでおり、城壁とともに当時の石器などが続々と見つかっている。

豊かな文化、発展を続ける産業を有する浙江省。ANA杭州市店の藤井康充支店長は「当社は2004年3月から成田からの直行便を就航、現在は関西国際空港からのコースもある。関空からは2時間のフライトで上海までの時間と変わらない。日本と杭州の渡航時間は短縮している」と話す。

東京都と地図上は約2千キロの隔たりがあるが、観光、ビジネスの面でその距離は極めて近い。中国では北京オリンピックや上海万博など国際的なイベントも控えており、その隔たりは今後さらに縮まっていきそうだ。

コメント

_ Q ― 2009/08/20 12:27

学術的には出鱈目でしょう(笑)

まあ、羽田氏は秦氏からきているという説があるから、だとしたら、徐福とは無関係ですわ(笑)
秦氏と言うのは、西暦4世紀から西暦5世紀頃に朝鮮半島から日本に来たわけで、徐福とは年代が全くあいません。
まあ、徐福の末裔が朝鮮半島に留まっていたと考えるのなら、ありかもしれませんが...
羽田氏の言い分からして、学術的に疑わしい話ばかりです。

要するに、ただ単に、羽田氏が中国利権の政治家って話でしょう。これと似たようなケースが、韓国利権の安倍晋太郎氏のケース。ちなみに、その息子の安倍晋三氏は、自分はアイヌと関係ありとか何とか、違うリップサービスしています。

つまり、現在の日本の保守を作っている政治家さんたちは、自分の家系も曖昧な成り上がり物が多いということです。だいたい、乱世になると、こういう状態になる。南北朝時代とか、戦国時代とか、明治維新とか、第二次世界大戦とか、大きな戦乱があるたびに、家系の怪しい成り上がりが、新たな保守層として浮上してくるということです。

_ Blondy ― 2009/08/20 16:58

古代歴史ロマンがお好きな方々には、日本とか中国は噛めば噛むほど美味しくて末永く楽しめる素敵なところでしょうネ。

太古の浪漫  弥生文明を先導した除福
http://www.syamashita.net/history/johuku/touto_gochi.html

中国のソフトパワー外交も広く目配りしていますね~w

温家宝首相直筆の石碑、済州島で除幕 朝鮮日報 2008/12/27
http://s03.megalodon.jp/2008-1230-0327-37/www.chosunonline.com/article/20081227000023innyou


あとはささやかなオマケです。

呉服神社(くれはじんじゃ) ← 音楽が鳴るサイトなのであらかじめPCのスピーカーをOFFにされるとよいかと
http://inoues.net/osaka/ikedasi7.html

伊居太神社(いこたじんじゃ)
http://www.geocities.jp/engisiki/settu/bun/st060704-01.html

_ えの ― 2009/08/21 01:01

大和岩雄「秦氏の研究」
http://www.daiwashobo.co.jp/products/1993/01/book2999.php
大和岩雄「日本にあった朝鮮王国」
http://www.hakusuisha.co.jp/detail/index.php?pro_id=03194
「推古天皇16年(608)、隋の煬帝は倭国に使節を派遣した。そのときの旅程を『隋書』倭国伝は、「竹斯(筑紫)国に至り、又、東して秦王国に至る。其の人華夏(中国)に同じ。以って夷洲(台湾)と為すも、疑うらくは、明らかにする能はざるなり」と記している。
 この「秦王国」の所在については厳島説・周防説・豊前説があったが、著者は大宝2年(702)の豊前国の戸籍(三里分のみ現存)を主な論拠として豊前説をとり、それをもとに壮大な古代空間を展開する。
 その戸籍によれば、三里の住民の80%以上は秦(はた)氏系の人々であった。彼らは朝鮮半島南部の加羅(伽耶)地方から渡来し、養蚕と金属の採掘・精錬・鋳造など最新の生産技術とともに、新羅系仏教と混交した土着信仰をもたらした。その代表がヤハタ(八幡)の神である。本書はこの他にも、修験道・弥勒信仰・虚空蔵信仰などの源流を秦王国に探ってゆく。」

_ Y-SONODA ― 2009/08/21 08:24

★Qさんへ

「・・・の末裔」系の話はさすがに引いちゃいますよね。
とはいえ徐福のことは文献好きのQさんのために紹介したんですけどね・・・。
「義楚六帖」には「秦の時に徐福が日本に至る。今に至り子孫はみな秦氏と名乗る」と書かれているそうです。
「学術的には出鱈目」はQさん自身にも跳ね返ってくる可能性があるので、迂闊に使わない方がいいかもよ。

★Blondyさんへ

>古代歴史ロマンがお好きな方々には、日本とか中国は噛めば噛むほど美味しくて末永く楽しめる

正直歴史ロマン系の人が超苦手なんですわ。何せ噛みすぎる!!
発掘現場で現地説明会をやると、そういう方々が一杯集まってくる。
熱心なのはいいのですが、それぞれに自説持参でやってくるからアツイアツイ。
その時から「近づかない方がいい人たち」と認識。
なぜか私まで引っ張り込まれてしまいましたが、そろそろ古代史ネタはやめますねw

★えのさんへ

>大和岩雄「日本にあった朝鮮王国」
おっと、この本はなかなか面白そう。今注文しちゃった。
いつもいつも貴重な情報、ありがとうございます。

_ えの ― 2009/08/22 09:13

秦氏と辛嶋氏
http://tenjin.coara.or.jp/~primrose/kawara4.html
秦氏と藤原氏、そして「三島」
http://www.ten-f.com/hata-to-fujiwara-mishima.htm
荒神と弥勒 ウラハタ幻視考
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/tokusyuhatashi.html

_ Q ― 2009/08/24 06:41

まあ、私は一応、正史といわれている文献を中心に解釈しようとしています。たとえば、日本書紀、古事記、風土記、延喜式、新撰姓氏録ぐらいのもです。これは、学校の教科書でも、ならいますし。(それ以外のものは避けています、基本的に。)
その場合、その文献の成立年代とか、その写本の書かれた年代はいつなのか、そういうのを重視しています。

「義楚六帖」ってのは、しりませんでした。教えていただいて、ありがとうございます。

秦氏に関しては、徐福とは年代が合わないから、直接的には無関係そうですよね。どうなんでしょうか。秦氏は、うまく藤原氏にとりいって、勢力を伸ばした一族ですよね。

_ Y-SONODA ― 2009/08/24 07:35

★えのさんへ

狩野家のDNA分析というのはおもしろいですね。
「日本人になった祖先たち」(NHKブックス)の篠田氏が調査したようです。
詳細はここに書かれているのでしょう。
これって手に入るのかなぁ。

篠田謙一, 2004. 木挽町狩野家出土人骨のDNA分析.「奥絵師狩野家墓所の調査」, 池上本門寺, pp.182-186.
https://www.kahaku.go.jp/research/researcher/books_other.php?d=shinoda

★Qさんへ

何が正史なのか。近・現代史だって評価がわかれるところ。
どうしても勝者の側から見たものになるのではないでしょうか。

_ トンチンカン ― 2009/08/24 19:19

2003年から5年にかけて五重塔解体修理の際に、周辺の墓も調査が行われた。調査は、立正大学の坂詰秀一教授を団長に、本門寺と大田区教育委員会、立正大学考古学研究室により実施された。調査報告は本門寺霊宝殿受付にて購入可能となっている。(坂詰秀一編 2004 『池上本門寺奥絵師狩野家墓所の調査-狩野養朴常信墓所・狩野如川周信墓所・狩野晴川院養信墓所-』 池上本門寺。)

http://www.photo-make.co.jp/hm_2/ikegami_haka_k.html

らしいです。父系が判ると面白そうですが、母系だと微妙ですね。

_ えの ― 2009/08/25 01:36

秦氏と多氏
『古事記』と関係深い秦氏と大年神系譜
http://www.geocities.jp/yasuko8787/o-114.htm
「『姓氏録』の書き方としては、姓氏の起源説話には、その祖先が登場するのが通例である。それなのに秦忌寸の条に秦氏ではなく小子部雷が登場することからみて、多臣同祖の小子部氏と秦氏の関係は非常に密接であったととみてよいであろう。」
『古事記』とは何か---和銅年間に挿入された「近代日本の聖典」
http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r18-90.htm
「『古事記』は、栄光時代の太安麻呂に仮託された、オホ氏や秦氏など新羅・加羅系氏族の栄光の原拠であり、それは彼らを寵愛し「日本国」を興した天武天皇を頌栄する書であった。」
多氏渡来人説
http://www.ne.jp/asahi/pasar/tokek/TZ/C-IL-Oouji.html

_ (未記入) ― 2009/08/25 05:43

えのさん

>多氏渡来人説
http://www.ne.jp/asahi/pasar/tokek/TZ/C-IL-Oouji.html

えのさんの「多氏渡来人説」の ソースのトップページを見ましたが、そのサイトはオカルト系って感じですよね。
http://www.ne.jp/asahi/pasar/tokek/TZ/index.html

多氏は新撰姓氏録に、皇別氏族にされているので、まあ、それが正しいところでしょう。渡来系氏族ではないです、多氏は。

えのさんは、ヤマト王朝の建国が神武東征から始まっているように思っていますが、ヤマト王朝の建国は、神武東征から始まったのではありません。出雲国譲りによって、ヤマト王朝による全国支配が完成したと思われます。

記紀により、時系列で順番に書くと

1、大国主の国造り・・・出雲・大国主により天下平定
2、出雲国譲り・・・出雲が、葛木高天(ヤマト王朝の前身)政権により併合され、ヤマト王朝の全国支配の始まりとなる。
3、天孫降臨・・・ヤマト王朝の命令で、ヤマト王家一族のニニギ命が九州高千穂に派遣される。
4、日向三代・・・ニニギ命から数えて三代。
5、神武東征・・・ヤマト本国で、謀反が起こる。(家臣だったナガスネヒコの専横)  よって、ヤマト王家を救うべく、日向家(ヤマト王家の分家)のニニギ命の曾孫である五瀬命と若御毛沼命(記紀編纂後に神武天皇と呼ばれるようになる)の兄弟が援軍としてヤマト本国に駆けつける。五瀬命は戦死するが、若御毛沼命は生き残り、功績を挙げ、ヤマト王家から執政を任されるようになる。若御毛沼命は磐余に居を構えたことから、通称を磐余彦と呼ばれるようになる。

えのさんは、この5番目の神武東征を最初としているが、ヤマト王朝の最初は、出雲国譲りから始まっている。このことは、記紀や風土記などの原文に痕跡が残っています。が、その具体的な痕跡はあえて言いません。

_ Q ― 2009/08/25 06:04

_ (未記入) ― 2009/08/25 05:43
は、私です。

あと、付け加えると、魏志倭人伝に登場する倭国大乱は、神武東征よりも、もっと後の時代です。明確な年代は分かりませんが。これは、私のだいたいの推測ですが...

紀元前1世紀後半?
  出雲国譲り。

紀元1世紀中頃前後?
  神武東征。

紀元2世紀後半~紀元3世紀前半?
  倭国大乱。

大雑把な書き方ですが、こんな感じです。実は、これよりも、もっと具体的に詳しく書け、また、何故、そのように解釈するのか、具体的なソースもあるのですが、このブログのコメント欄では、これぐらいにしておきます。

_ Y-SONODA ― 2009/08/25 08:03

★トンチンカンさんへ

やはり池上本門寺に問い合わせるしかないみたいですね。
前に一度ライブを見るために池上本門寺に行ったことがあるなぁ。

★えのさん&Qさんへ

昨日の記事で敢えて引用したものをここでも紹介しておきます。
私は歴史から何を学ぶかを優先にしたい。
単なる「ものしり」の「歴史オタク」なら腐るほどいる。
ネットにはその方たちの情報の方が多いので要注意。
西嶋定生をまともに論じるサイトの少なさがそれを物語っています。

西嶋先生の思い出(大隅 晃弘)
http://hyena.human.niigata-u.ac.jp/e_asia/zazhi/zazhi08/osumi98.html

この日西嶋先生は講義の冒頭、「世界史とは世界が一体化する過程である」と世界史とは何かという定義から入られ、次に「資本主義成立以前の前近代では世界は一つではなくそれぞれの地域にそれそれ独自の文化をもつ文化圏を形成し、いわば世界は複数存在した」と述べ、その上で「東アジア文化圏」とは何かという命題にはいられた。その間わずか五分程度、早口ではあったが、非常に明晰な語り方だった。おおげさに聞こえるかも知れないが、そのとき私は本当に涙ぐんでしまった。今思えば、先生としては自明のこととしてお話になったのだと思うが、いわゆる「ものしり」(?)なだけの歴史オタクの少年が、はじめて歴史を体系的・構造的に解明する理論に出会って感動したのだ。

_ えの ― 2009/08/26 02:18

羽田孜元総理の父親の出身地、長野県(科野国)は伽耶、高句麗系渡来人の遺跡が多いところ。
長野県の古墳
http://members3.jcom.home.ne.jp/yoshi-cp/chikumagawa.htm
森浩一「年代的な問題に限ると長野県の積み石塚古墳は高句麗の影響を受けたものと見てよい」
備仲臣道「高句麗残照 積石塚古墳の謎」
http://www.hihyosya.co.jp/isbn978-4-8265-0363-1.html
県宝 金銅製天冠
http://takara.city.matsumoto.nagano.jp/prefecture/055.html
http://blog.goo.ne.jp/parksangyoung/c/ff8231cc212de07ca533453fb63cf331

_ Y-SONODA ― 2009/08/26 08:33

えのさんへ

羽田孜のルーツは朝鮮系渡来人ということでしょうか。
お顔から判断するとムーミン族の可能性もあるかもしれませんよw

_ えの ― 2009/08/26 10:31

長曽我部氏
http://www.osaka-jo.net/itiran/51.html
「河勝は太子の信頼に応えて多大な功績を挙げ、恩賞として信濃国更級郡桑原郷を賜り、子の広国を派遣して信濃の統治に当たらせた。以後、泰氏は信濃に住して豪族に成長していった。『更級郡誌』には、「保元の乱」に際して能俊が村上為弘、平正弘らと崇徳上皇方に属して敗れ、土佐国に走ったという。ちなみに、阿波の新開氏も信濃秦氏の分かれといい、秦氏が佐久・更級・東筑摩地方に広がっていたことをうかがわせている。」
新開氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sin_kai.html
「新開氏の祖先は、天武・持統朝以後、辺地の開発のために移住させられた新羅系渡来氏族の秦氏だという。秦氏は農・工技術集団として信濃に入り、佐久・更級・東筑摩地方に広がり、地方豪族として成長したものと考えられている。」
善光寺・善光寺縁起・善光寺式阿弥陀三尊
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/daijiten-zenkoji.htm
『「扶桑略記(ふそうりゃっき)」の仏教渡来の条によると、欽明天皇十三年に百済国の聖明王が献じた一尺五寸の阿弥陀仏像と一尺の観音・勢至(せいし)像が善光寺如来であるといい、この像を推古天皇十年四月八日に秦巨勢大夫(はたのこせのたいふ)に命じ信濃国に送ったと記している。』

_ Q ― 2009/08/26 14:12

園田さん

秦氏というのは、公式的には、応神天皇の時代に、百済から日本にやってきた中国系ってことになっています、日本の文献上。
ただ、実は百済ではなくて、新羅のほうから来たのではという説がある。新羅のあたりは、4世紀の途中までは、辰韓諸国とされた地域で、その中で最も強かった新羅によって統一された。で、中国の魏書によると、その辰韓の名前の由来が、秦韓であり、これは、中国の秦からの流民によって成立したとされていた。

辰韓伝  三国志魏書、後漢書、晋書
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/sankan-sinkan.htm

_ Y-SONODA ― 2009/08/27 09:35

★えのさんへ

ついに長曽我部氏がきましたね~。
戦国武将ブームでその子孫を名乗る人もいるそうです。

長宗我部最高~! 県外ファン集い子孫たまげる
http://203.139.202.230/?&nwSrl=235619&nwIW=1&nwVt=knd


★Qさんへ

あくまでも私の推論ですが、中国からの直接組みと半島経由組みの2ルートがあるような気がするんですよね。
本当に謎だらけですね。

_ えの ― 2009/08/28 01:27

長野県下高井郡木島平村根塚遺跡
http://www.kijimadaira.jp/modules/category/index.php/public_html/guide/kik_20070622netsuka.htm
「その筆順から、朝鮮半島との関連を示す資料として話題を呼んだ「大」と記された刻書土器(3点)もここに含まれています。」
「発見された鉄剣は3振り。弥生時代終末期の鉄剣としては日本最大。1号剣は長さ56cm、幅3cm、厚さ0.8㎝、2号剣は長さ74cm、幅3.5cm、厚さ1cm、3号剣は長さ47cm、厚さ0.7cm、幅3.3cm。1号剣と3号剣は実用剣で、2号剣は儀礼剣と考えられています。2号剣には柄頭に1か所、柄尻に2か所の渦巻文装飾が施されており、装飾の渦巻文は朝鮮半島南部の伽耶地方独特のものということで、木島平村と伽耶との日本海ルートを通じた直接交流をも示唆しています。」
長野県の積石塚古墳
http://www.geocities.jp/rarememory/emisi/b.htm
「弥生時代、2世紀から3世紀代前半に、朝鮮半島の南の伽耶、洛東江下流域の釜山あたりから日本列島にこの鉄剣が運び込まれて、木島平にまで来ている。木島平村から千曲川、信濃川を下ると、すぐ日本海、越後平野に通じる。」
どうして長野に善光寺があるのか
http://www.h7.dion.ne.jp/~tsumugu/tsumugu020317.htm
「科野氏(金刺氏)の一部は百済の朝廷に仕えていたが、百済滅亡後日本に帰国した。
660年百済滅亡。663年白村江の戦。」
「北信濃には日本海を経由して直接朝鮮半島の文化が入ってきていた。」
科野国造の科野氏は多氏と同族。「大」と記された刻書土器は多氏と関係がありそう。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01222.htm

_ Y-SONODA ― 2009/08/28 08:13

えのさんへ

諏訪大社のことも調べると面白いですよ。
日本が根っこから融けていくかもしれませんが・・・。

_ Q ― 2009/08/29 07:01

>えのさん

倭の豪族たちの分家筋あたりが、百済の官僚社会に多くいました。中国の文献でも分かるとおりに、百済というのは、王族は高句麗の扶余系(モンゴル諸族系)が出自で、広開土王碑文でも分かるとおり、4世紀になって、倭国が朝鮮半島に緩衝地帯を設けるために、扶余の王族をたて、官僚に倭人や中国人をおいて建国した国家です。

『隋書』百済伝
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/kudara-kanbun7-zuisho.htm


>園田さん

諏訪は、古来から大和王朝から流刑地とされていたところです。

諏訪大社は、出雲国譲りと関係があります。出雲国譲りの時に、大国主の長男の建御名方神が落ち延びた地とされている。

諏訪氏は、建御名方神の子孫です。しかし、落ち延びた地で子孫が残ったということは、要するに、諏訪の地は流刑地だったのでしょう。

一方、神武天皇の子の子孫である科野氏(金刺氏)は、その一族の中に、朝鮮半島で任務についていたものがいた。そして、その科野氏(金刺氏)の本流は、信濃にいて、流刑地である諏訪と関係もある。

諏訪を知ることは、あらゆる歴史の敗者の存在を知ることになる。一つは、ヤマト王朝に敗れた出雲の者たちの流刑地として、もう一つは、大陸・半島などで日本に亡命してきた者の移送地として。

_ Q ― 2009/08/29 07:22

連投ですいませんが、

平安末期の木曽義仲も、父親の源義賢が敗死した後、この信濃の地に預けられて、そこで成人まで過ごしている。義仲の前半生に関する史料はほとんどないが、諏訪大社に伝わる伝承では一時期、下社の宮司である金刺盛澄に預けられて修行したといわれている。後に手塚光盛などの金刺一族が挙兵当初から中原一族と並ぶ義仲の腹心となっている。

また、忠臣蔵で有名な吉良上野介の孫も、諏訪の地に流罪になっている。


今の時代と違って、交通通信が発達していない時代。信濃の地は、陸の孤島のよう地域だったので、流刑地として、うってつけだったと思われる。関ヶ原の戦いでも、徳川秀忠の軍が関ヶ原に遅参したのは有名だが、この信濃の地を通過するのに、四苦八苦している。

_ えの ― 2009/08/30 03:23

東山道:もうひとつの「国譲り」
http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r12-86.htm
『正月早々、神域を流れる小川の土手を掘り起こして、冬眠中の蛙(ニホンアカガエルらしい)を掘り起こし、それを串刺しにして神饌物として諏訪大明神に供えるそうだ。贄物として蛙を捧げてもらって喜ぶのは蛇くらいのものだ。』
蛙狩神事
http://genjin.cool.ne.jp/sinji/kawazu.htm
御頭祭
http://www22.ocn.ne.jp/~kuroneko/onto-sai.htm
「縄文のメドゥーサ」田中基
http://www.gendaishokan.co.jp/goods/ISBN4-7684-6929-9.htm
『日本列島の八ヶ岳山麓に縄文中期の豊富な内容――女神、蛇体、半人半蛙、幼猪等――の精霊を表現した土器図像が発掘された。これらは『古事記』『日本書紀』の天地創造の神話に通じており、王権神話も深層において野性的、土着的な意識を乗り越えることができなかったといえる。さらに中世諏訪祭は蛇体祭祀であり『記・紀』の蛇体祖霊来訪神事と同質であるといっていい。今日の諏訪の御柱祭はそれらの変容である。』

_ Q ― 2009/08/30 06:02

基本的に、日本神話の世界というのは、弥生時代にはいって、かなり時間が経過した世界であり、弥生VS縄文の対決は、あまり見られないと思う。
最近の農耕の伝播時期が古く遡られる結果から、そのことが推測がつくようになっている。
たしかに、地域によっては、古アジア人種の血が濃い地域、新アジア人種の血が濃い地域などあったとは思うが...それも程度の差だと思う。
有名な作家の高橋克彦も、「炎立つ」という小説を書いた頃は、蝦夷=アイヌ=縄文というふうに認識していたそうだが、最近は、この見方をしないそうである。
人種の違いよりも、生活環境の差の違いが大きく、実際に、ヤマトも蝦夷も、古アジア人種と新アジア人種の混血であり、どちらも弥生人の末裔であることには間違いない。ただ、混血の比率が多少違っていただけである。

神武東征伝承で、土蜘蛛が縄文だという人がいるが、まあ、たしかに、近畿地方の山奥には、平地とは、やや風貌の違う人もいたでしょうが...神武東征伝承での主役である、近畿側で出迎えた主役である、高倉下、ナガスネヒコ、ニギハヤヒは、いずれも、神武とは同じ部族である。
とくに、熊野で出迎えた高倉下は、海部氏系図では、天村雲命の弟といわれており、神武の父親とは、フタ従兄弟にあたる。

_ えの ― 2009/08/30 09:51

諏訪の古代を探る
http://homepage3.nifty.com/yatu/culture/5topics.htm
ミシャグチ様のこと
http://www.tiny.jp/~arugacom/suwakou/misakuti.html
中沢新一「精霊の王」
http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2118505
「<魂の原日本>を求めて縄文へと遡る思考の旅
日本という国家が誕生したとき、闇へと埋葬された「石の神」とは?
芸能、技術、哲学の創造を司る霊妙な空間の水脈をたどる。
柳田国男『石上問答』の新たな発展がここにある!
宿神の秘密を明かす奇跡の書 金春禅竹『明宿集』現代語訳も収録!!」
五来重「石の宗教」
http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=1598090
「日本人は古来、石には神霊が籠ると信じてきた。庶民は自然石を拝み、石を積み、あるいは素朴に造型して、独自の多様な石造宗教文化を育んだ。仏教以前の祈りの時代から連綿と受け継がれてきた先祖たちの等身大の飾らない信心の遺産。路傍の石が体現する宗教感情と信仰を解き明かし、埋もれていた庶民信仰の深い歴史を掘り起こす。」

_ Y-SONODA ― 2009/08/31 09:53

★Qさんへ

諏訪流刑地説が出てきましたね。
確かに木曽義仲も気になるところ。
おもしろい情報ありがとうございました。

追伸:先日紹介した小熊英二氏の「単一民族神話の起源」もぜひ一読を。

★えのさんへ

「『記・紀』の蛇体祖霊来訪神事と同質」・・・これはどうなんでしょうか。
カラスからすれば蛇信仰が気になって仕方がない。
ちょっと調べてみますね。

_ Q ― 2009/08/31 19:48

諏訪大社と出雲の関係
建御名方神は、父親は出雲の大国主だが、母親は高志国(越国)の豪族の娘だったようで、出雲と北陸と信濃の関係は興味深い。
建御名方は、外戚の出自の関係で、出雲国譲り時は、越国の統治を任されていたもよう。



『古事記』の大国主の神話の段
八千矛神(大国主)が高志国の沼河に住む沼河比売を妻にしようと思い、高志国に出かけて沼河比売の家の外から求婚の歌を詠んだ。沼河比売はそれに応じる歌を返し、翌日の夜、二神は結婚した。

新潟県糸魚川市に残る伝承
大国主と沼河比売との間に生まれた子が建御名方神で、姫川をさかのぼって諏訪に入り、諏訪大社の祭神になったという。『先代旧事本紀』でも建御名方神は沼河比売(高志沼河姫)の子となっている。

『出雲国風土記』島根郡美保郷の条
高志国の意支都久辰為命(おきつくしい)の子の俾都久辰為命(へつくしい)の子と記され、大穴持命(大国主)との間に御穂須須美命(みほすすみ)を産んだと書かれている。

_ Q ― 2009/08/31 21:21

連投ですいません。

園田さんに質問ですが、
園田さんは、出雲国譲りとは、どのようなものだったと、お考えですか?

私の出雲国譲りの解釈では
近畿王朝(葛木高天が首都)と日本海王朝(出雲が首都)の覇権争いで、もともとは(自分の推測では、紀元前1世紀くらいまで)、沿岸勢力である日本海王朝(出雲)を中心に緩やかに倭国が纏まっていたものが、内陸勢力である近畿王朝(高天)によって併合された事件が、出雲国譲りだと解釈しています。(詳細に書くと、まだまだ出雲国譲りの真相があるが...とりあえず、ここまで)

これの痕跡にあるような箇所は、古事記、日本書紀、風土記、新撰姓氏録、旧事本紀、海部氏系図、延喜式の7つの文献に残っています。

_ Y-SONODA ― 2009/09/01 07:16

諏訪大社情報

【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 神話を読み解く(2)
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080908/acd0809080819005-n1.htm

ミシャグチ様とその社の一覧
守矢神長家の話 守矢早苗
http://www.tiny.jp/~arugacom/suwakou/misakuti.html

縄文時代につながる諏訪の神様 --- 長野県・諏訪盆地
http://www.ne.jp/asahi/rekisi-neko/index/moriya.html

_ トンチンカン ― 2009/09/01 09:53

鳥越憲三郎氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD
の「稲作儀礼と首狩り」から蛇に関して抜き出すと。P32に下記のように書かれています。

「その死と再生を伴う農耕神を蛇としたのは、蛇が農作業の停止期間は地下で冬眠し、それは死の擬態を意味するが、農耕の始まる時期の訪れとともに再生して地上に現れる。その季節感の一致のためである。もちろん冬眠する動物は他にも多くいる。その中で特に蛇が選ばれたのは、脱皮して生長する蛇の習性に、復活する特殊な再生力のある事を認めたからであろう」

そして自説に従い滇国を倭人の国とした上で晋寧石塞山遺跡及び古墓群より出土した以下の品と雲南のワ(イ+瓦)族の首狩り儀礼とミシャグチ神について考察されてます。

殺人祭銅鼓貯貝器
http://abc0120.net/words/abc2007122810.html
いけにえ祭祀銅釦飾
http://abc0120.net/words/abc2007122602.html
人物屋宇銅飾 
http://big5.ce.cn/gate/big5/cathay.ce.cn/pieces/200906/01/t20090601_19217862.shtml
(この屋根にかかった、でっかいヘラみたいなのに蛇がいるそうです)
滇王之印
http://abc0120.net/words/abc2007042507.html

石寨山古墓群
http://abc0120.net/words/abc2007032004.html

_ トンチンカン ― 2009/09/01 10:07

連投すみません、補足です。

上記のサイトだと殺人祭銅鼓貯貝器の説明で「貯貝器中央の柱状に重ねられた銅鼓は、もちろん祭祀の対象ではない。」と書かれてますが鳥越氏はこの銅鼓に巻き付いている蛇に注目しているようです。

同遺跡から出土した殺人祭桶形貯貝器には人を飲み込む蛇の造形があるそうです。

_ Q ― 2009/09/01 19:46

園田さん

出雲から北陸に広く分布する四隅突出型墳丘墓の分布変遷をみれば分かると思います。これは、実は、出雲神話の分布変遷によく似た経路をたどっている。

四隅突出型墳丘墓の発生は、広島県の三次盆地が最初で、明確な年代は分かりませんが、だいたいが紀元前100~紀元前50年ぐらいのものです。この時代といえば、朝鮮半島に中国の楽浪郡が建設された時期であり、倭国が楽浪郡に使者を送り始めた頃です。

出雲王朝による日本海沿海部王権というのは、中国の朝鮮半島への進出によって、対中国外交で利益の独占を狙う勢力が、出雲を中心に誕生した出来事かもしれません。たとえば、対馬なんかにも、この頃の出雲や楽浪郡に関する遺物が多く出土します。

出雲発祥の地?

三次盆地
http://www.hirojo-u.ac.jp/W3HW010j.html

三次市
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%AC%A1%E5%B8%82
「江の川本流可愛川、及びその支流、馬洗川、西城川、神野瀬川が交わる盆地を中心とした地域。河川の合流により夏場から秋にかけこの地方では珍しい霧が生じやすく、地元では霧の町とも呼んでいる。 」
「弥生時代後期に四隅突出型墳丘墓が三次盆地で発祥し、出雲地方一体で採用され、さらには北陸地方にまで広がった。 」

三次盆地は、霧の都であり、出雲神話を思わせる土地である。また、中国地方にある重要な河川の集積地でもあり、この川上を押さえたものが、権力を握ったのは、容易に想像がつきます。

また、出雲の神の系統にも、水の支配者を思わせる名前の神々が多く登場します。

出雲の系図

深淵之水夜礼花神(ふかぶちのみずやれはなのかみ)
━淤美豆奴神(おみづぬのかみ)
・・・大国主命


前近代ではそうですが、農耕社会では、水と食料が重要であり、広い耕地と、そこに供給する水を支配したものが、権力を握っていきます。
神=上=守=カミも、同じ系譜であり
川上(カワカミ)を支配したものが、権力を握ったと思われます。

これは、山幸彦と海幸彦の比喩でも明らかで、日本の土地をみれば分かりますが、山と海が至近距離でせっているのが日本の地形であり、山側の川上の勢力が海を近い平野部を支配したことの比喩だと思います。

出雲における中国山地もそうですが、
大和盆地では、葛木の高天地方(御所市)が、そういう地域に当たります。

御所市の地図。より、地球の上からみると、このあたりの地政学的な意味が分かる。
http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&source=hp&q=%E5%BE%A1%E6%89%80%E5%B8%82&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

_ えの ― 2009/09/02 02:59

吉野裕子「蛇 日本の蛇信仰」
http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=1593781
『古代日本は蛇信仰のメッカであった。縄文土器にも活力溢れる蛇の造形がたくさん見られる。蛇に対する強烈な畏敬と物凄い嫌悪、この二元の緊張は注連縄(しめなわ)・鏡餅(かがみもち)・案山子(かかし)など数多くの蛇の象徴物を生んだ。』
http://www7a.biglobe.ne.jp/~monadon/books127.htm

_ Q ― 2009/09/02 08:28

出雲と大和の蛇信仰

大物主は蛇神であり水神または雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として篤い信仰を集めている。また国の守護神である一方で、祟りなす強力な神ともされている。

三輪山=大物主=大国主が自分の和魂を大物主として祀った山
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%89%A9%E4%B8%BB

古事記
大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光輝いてやってくる神様が表れ、大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した。大国主が「どなたですか?」と聞くと「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。

日本書紀の一書
大国主神の別名

大神神社の由緒
大国主神が自らの和魂(にきみたま)を大物主神として祀ったとある。

日本書紀 第四話 箸墓
・・・倭迹迹日百襲姫命は、三輪山(大物主)に仕える巫女だった話。大物主信仰は、蛇信仰でもある。
http://www.loops.jp/~asukaclub/syoki/syoki034.html

_ Y-SONODA ― 2009/09/02 09:31

吉野裕子
http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_ss?__mk_ja_JP=%83J%83%5E%83J%83i&url=search-alias%3Dstripbooks&field-keywords=%8Bg%96%EC%97T%8Eq&x=8&y=23

「山の神 易・五行と日本の原始蛇信仰」
「吉野裕子全集〈第5巻〉日本人の死生観・陰陽五行と日本の民俗」

この2冊を追加で買ってしまった。

_ トヨタマ ― 2009/09/13 00:31

わたしは島根県の安来市あたりがくさいと思っています。

_ Y-SONODA ― 2009/09/14 07:27

トヨタマさんへ

いろんな説がありますねー。

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