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武器から読み解く「国生み神話」:淡路島・垣内遺跡の鉄器巨大工房2009/08/13 00:30

神戸新聞:国内最大の鉄器工房跡 淡路島の弥生時代遺跡 


昨日、二上山のサヌカイトに詳しい考古学者にお電話。
(この方はかつての私の上司で今や世界を飛び回る日本のインディアナ・ジョーンズ!)
二上山のサヌカイト経済圏に武器商人のルーツを見出すのは難しいとのご指摘(笑)

ただし、弥生中期になると青銅器に対抗するかのように石器も大型化。
この頃から「武器としての石器」が当時の権力者たちと結びついた可能性があるとのこと。

しかし、青銅器の時代は長く続かず、たちまち鉄器の時代へ。
権力者たちが鉄に群がったとしても不思議ではない。

今年は鉄器発掘の当たり年。
大阪・長原遺跡に続いて、淡路島・垣内遺跡も紹介しておきます。

さて、鉄といえば今や気になるのは中国と英豪系資源大手リオ・ティントの戦い。
中国上海市検察当局は拘束していたリオ上海支社幹部4人を産業スパイと贈賄容疑で正式逮捕へ。

「鉄の熱いうちのド突き合い」は何度も何度も繰り返されてきたようです。


<関連記事引用>

▼国内最大の鉄器工房跡 淡路島の弥生時代遺跡(画像引用)
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0001667526.shtml

 淡路市黒谷の垣内(かいと)遺跡の発掘で、鍛冶(かじ)工房跡計十カ所が確認され、弥生時代後期(一〇〇-二三〇年)で国内最大規模の鉄器製造群落だったことが分かった。同市教委が二年間の調査結果として二十二日発表した。弥生時代の鍛冶工房跡は九州など西日本各地で見つかっているが、建物が密集した製造専門集落は全国的に珍しく、当時のいわば工業団地。専門家によると、大和政権成立以前の有力者の一大武器供給源だった可能性もあるという。(西尾和高)

 垣内遺跡は播磨灘の海岸線から三キロの丘陵地にあり、東西五百メートル、南北百メートル。昨年度に本格調査が始まり、弥生時代後期前半の鉄器工房跡二カ所が発見されていた。

 本年度の調査で八カ所を確認。強い熱で赤く焼けた炉跡があった。床面は円形(七棟)と方形(一棟)。当時の建物としては規模が大きく、最大で直径一〇・五メートルある。

 鉄製の矢尻や鉄片なども四十五点出土し、弥生時代の工房跡での出土鉄器数としてはかなり多い。矢尻などは、近畿地方で見つかる鉄製品とは違い、鉄を切って整えただけの単純な形のものではなかったという。

 鉄は弥生時代中期初頭、中国、朝鮮半島から九州へ伝わった。その後、山陰、近畿へ伝わった日本海ルートと、四国までの瀬戸内海ルートがあるとみられている。今回見つかった鉄器の特徴などからは、徳島から淡路島へ渡ってきた可能性もあるとみられる。

 東アジア考古学・冶金(やきん)考古学を研究する愛媛大学法文学部の村上恭通教授は「農耕民の生活臭がない工房空間で、例がない密集度は安定的な生産を裏付けている」と指摘。市教委は「淡路島が鉄器生産で重要な鍵を握っていたことになる」としている。


▼(単眼複眼)「日本の起源」神話に迫れ 淡路島・垣内遺跡に鉄器工房跡 【大阪】
2009/01/30朝日新聞夕刊

 弥生時代の鉄器工房跡が10棟も見つかった兵庫県淡路島・垣内(かいと)遺跡。その眼下に広がる穏やかな瀬戸内海を渡って、朝鮮半島や中国から鉄素材(原料のインゴット)がもたらされていたとされる。このころ、鉄は「国際分業」体制に委ねられていたらしい。

 中国の史書『魏志』韓伝にはその頃、倭(わ)人が盛んに朝鮮半島で鉄を採取していたと記されている。砂鉄などを溶かして鉄素材にする技術は早くから朝鮮半島にあった。一方、日本列島では、鉄は農耕具や武器の重要な資材だったが、岡山県南部で5、6世紀に開始されるまで明確な製鉄の痕跡はない。それ以前の鉄器づくりは、採取・製鉄過程を大陸に頼っていたのだろう。また、多くの鉄器は回収され、垣内遺跡のような鍛冶(かじ)施設で再加工されたと考えられる。

 垣内遺跡では、1棟の中に10基の鍛冶炉が配置された工房もあった。古代の鉄に詳しい愛媛大学東アジア古代鉄文化研究センター長の村上恭通教授は、長期にわたって安定的に鉄器を生産していたと推測する。「徳島県域でも似た鉄製品や工房が見つかっており、連動していた可能性もある」

 いわゆる「国生み神話」で最初に登場するのが淡路島である。史実ではないが、こうした神話の存在から、古代人にとって淡路島は特別な地だったと推察できる。ところが海を隔てた大阪南部にある巨大古墳のような目立つ遺跡は、これまで島内では見つからなかった。垣内遺跡の発見で、古代史上の淡路島は「やはり先進地だった」と見直されるのは確実になった。

 島根県の出雲も、豊かな神話に彩られながら実像は「あいまい」とされてきた。それが、大量の青銅器や出雲大社の壮大な柱跡などの相次ぐ発見で、学界をあげて古代史の再検討が始まった。淡路の調査・研究にも、同様の期待が高まっている。


▼淡路 鉄器製造群落発見の垣内遺跡 古代国家の謎解明に新視角 
邪馬台国の所在めぐる論争に一石か 畿内説補強の可能性
2009/01/31神戸新聞朝刊

 弥生時代で国内最大規模の鉄器製造群落と分かった淡路市黒谷の垣内(かいと)遺跡。流通ルートが謎だった弥生時代後期(100―230年)に、鉄器を安定的に製造していたとみられる。鉄器の加工拠点がほとんど見つかっていなかった近畿で、大きな製造群落の発見は初めて。当時、権力の象徴だった鉄器を、どんな権力者が何のために作らせていたのか。邪馬台国(やまたいこく)論争にも一石を投じる可能性があり、考古学ファンの注目を集めている。(津名支局・西尾和高)

 播磨灘を見下ろす標高二百メートルの丘陵地。東西五百メートル、南北百メートルの発掘区域から、十カ所の鉄器工房跡が発見された。昨年度からの調査では鉄製矢尻や鉄片など約七十点も出土しており、当時の“ハイテク工業団地”のようなものだったらしい。

 国内の鉄器製造は弥生時代中期、中国や朝鮮から九州へ伝わったとされる。しかし当時、国内では鉄素材の自給は困難で、輸入した材料を加工していたとみられている。

 後期になると、生産用具が石器から鉄器へ変化する。政治的先進地が九州から畿内へ変わろうとしていた時期。古代中国の複数の歴史書に、小国が乱立し覇権を争った「倭(わ)国(こく)大乱」の世とある。大和政権が成立する前の激動の時代だった。

 では、淡路島に巨大工房を開き鉄を生産していたのは誰か。そんな疑問に対し、芦屋市教委(日本考古学)の森岡秀人学芸員はこう推測する。

 「垣内遺跡は一般集落ではなく、鉄器生産に特化した工房跡。倭国大乱で武器が必要とされていたが、畿内に工房は少なかった。この遺跡が供給源だったのではないか」

 島内では、有力者とみられるような墳墓が、今のところ発見されていない。さらにこの時期、島の人口が急増しているが、水田に適した平野に乏しいため、人口増が農業生産によるとは考えにくい。これらの理由から”工業団地”化は島外の有力者がもたらした、というのが多くの専門家の見方だ。

 岡山大学(弥生時代集落論)の松木武彦准教授は「播磨から河内にかけた大阪湾沿岸、奈良盆地周辺の有力者たちが連合し、鉄を中心とした物資の流通を統括し、その拠点を沖合の要衝地である淡路島で築いたとも考えられる」という。

 倭国大乱の時代は、邪馬台国の成立につながった国内の動乱期。邪馬台国の所在をめぐっては畿内説と九州説があり、決着はついていない。それぞれに根拠が指摘されているが、畿内説最大の弱点とされるのが鉄。九州や山陰地方を中心に多く見つかっている鉄器工房跡が、近畿ではほとんど確認されていない。鉄器の出土も、九州と比べて圧倒的に少ないからだ。

 いわば鉄の“空白地域”だった近畿で、新たに見つかった大規模鉄器工房跡。「邪馬台国との関係が、もし分かったら…」。発掘調査にあたった淡路市教委の伊藤宏幸課長補佐は期待を込める。森岡学芸員も「古代の日本社会は鉄とともに育った」とし、工房の発見が畿内説を補強する可能性を指摘する。

 今のところ、所在地論争に直接結びつける決め手はない。しかし淡路島に工房を築いた勢力が、古代国家の成立に深くかかわっていた可能性は高い。それがもし邪馬台国だったら…。古代史のロマンの扉は、まだ開いたばかりだ。

〈倭国大乱〉

 2世紀末に古代日本の倭国で起こったとされる大規模な争乱。古代中国の複数の歴史書に記述がある。倭国は代々男子王だったが何年間も争乱が続き、邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)を倭国王とすることでようやく収まったという。


<関連記事>

二上山のサヌカイト経済圏に武器商人のルーツあり?
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2009/08/09/4488172

鉄器を制したのは誰だ?
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2009/08/09/4488207

コメント

_ Q ― 2009/08/13 17:18

>〈倭国大乱〉
>2世紀末に古代日本の倭国で起こったとされる大規模な争乱。
>古代中国の複数の歴史書に記述がある。
>倭国は代々男子王だったが何年間も争乱が続き、
>邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)を倭国王とすることでようやく収まったという。

この代々の男子王ってのが、尾張氏の先祖のことじゃないでしょうか? おそらく、天火明命、天香語山命、天村雲命というふうに、大倭王が継承されていたと想像する。
どうでしょうか?

_ S ― 2009/08/13 18:34

Qさん

日本書紀にある歴代天皇と、ここにある〈倭国大乱〉 から邪馬台国の卑弥呼を倭国王とするという記述とはどう整合するのでしょうか?

また、この記事にあるように淡路島が最初に栄えたことと、日本書紀の国産み神話とは順序としては整合するように思いますが、書紀に記述されている天皇の在位期間とは時間軸が全く合わないのはどう説明できるのですか?

応神天皇以前については実在性について疑問があるとも言われているようですが、貴方はどう解釈しておられるのでしょうか?

_ Y-SONODA ― 2009/08/14 08:40

Qさん&Sさんへ

このあたりになるといろんな説がありますよね~。
やはり私はクールに出てきたものを信じま~す。

_ えの ― 2009/08/16 02:55

>淡路島に工房を築いた勢力が、古代国家の成立に深くかかわっていた可能性は高い。

古代豪族物部氏は鉄の武器を製造する鍛冶部民を統括していた。
日本書紀によると物部氏の祖、饒速日命は磐余彦尊(神武天皇)より先に大和地方に渡来し国作りをおこなっていた。(系図によると物部氏の祖は尾張氏の祖と姻戚関係にある。)
【物部氏】
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02113.htm
関裕二「物部氏の正体」
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1209.html
天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから)
http://mononobe.nobody.jp/

_ Q ― 2009/08/16 07:14

えのさん

関祐二はトンデモ系だと思う。彼の主張は、邪馬台国論争からして怪しい。
物部氏の祖先のニギハヤヒは、新撰姓氏録では天神系であり、一応、葛木の高天の原の発祥の豪族で、家系は、ヤマト王家とは別家系です。ただ、旧事本紀(物部氏が書いた史書)などでは、物部氏の祖先であるニギハヤヒは、尾張氏の祖先である天火明命と同一人物とされ、天孫というふうになっているそうです。

高天の原とは、葛木の高天の原です。私は前に、高天の原とは、古代から朝廷では、そういう見解だったと書きましたが、やはり、日本列島の地政学的な面からみて、普通に、最後の覇権を決定付けしたのは、畿内・濃尾地方VS中国地方の戦いで、畿内・濃尾地方が勝利することによって、決まったのです。これは、戦国時代の織田・豊臣VS毛利の戦いで、毛利が豊臣の軍門に下ることによって、ほぼ豊臣の天下が決定的になったことからも明らかです。このことは、風土記にも、その痕跡が残っています。


Sさん、ここのブログのコメント欄では、大雑把ですが、あなたの質問に答えましょう。

>日本書紀にある歴代天皇と、
>ここにある〈倭国大乱〉 から邪馬台国の卑弥呼を倭国王とするという記述とは
>どう整合するのでしょうか?

最近の考古学では、箸墓が卑弥呼の墓かもという説が強くなってきています。箸墓は、孝霊天皇の皇女であるヤマトトトヒモモソ媛命の墓とされています。これらのことから、魏志倭人伝の記載や、日本書紀などのヤマトトトヒモモソ媛命などに関する記載やその周辺系図などをよく読めば、その謎が見えてきます。

>この記事にあるように淡路島が最初に栄えたことと、

別に淡路島が最初に栄えたとは記事には書いてないですよ。ただ、遅くとも、西暦2世紀には、この淡路島で大規模な鉄の工房があって、それを畿内の王朝が運営していただろうという推測がされているだけです。

>書紀に記述されている天皇の在位期間とは
>時間軸が全く合わないのはどう説明できるのですか?

これは、よく言われているのが、卑弥呼の時代あたりは、暦の数え方が違っていたという説ですね。魏志倭人伝にも、その痕跡があります。やたら、天皇の寿命が長いのも、そのせいですよね。ただ、日本書紀は細かく編年体で書かれていますが、実際は、古事記にあるような大雑把な干支没年ぐらいでしか、記紀編纂時の8世紀には伝承されてなかったのでしょう。日本書紀は古事記と違って、外交にも使うものなので、中国の史書のように無理して編年体で書いたもよう。その過程で、過去の暦の違いから、卑弥呼が何者なのか分からず、書紀の編纂者が、自分らの主観で無理に年代を改変して納得していますね。

>応神天皇以前については実在性について疑問があるとも言われているようですが、
>貴方はどう解釈しておられるのでしょうか?

これも人によって、まちまちですよね。崇神天皇以前の実在性を疑問視したり、色んな説がある。が、しかし、箸墓が卑弥呼の墓なら、およそ、欠史八代あたりの天皇などの実在性まで見えてくると思いますよ、まあ、私は、神武天皇はもちろんのこと、日本書紀では神話とされている(しかし、古事記では神話と非神話の境界は曖昧である)天忍穂耳命あたりまでは、実在性があると思いますよ。まさに、この天忍穂耳命の子供の代で、出雲国譲りが達成されたと記紀には書いてあり、それは、畿内王朝が出雲王朝を併合した事件だったのでしょうね。

_ Y-SONODA ― 2009/08/16 08:17

えのさん&Qさんへ

そういえば知り合いの考古学者も二上山のサヌカイトや周辺の鉄器を牛耳ったのは物部氏かもしれないと言っていましたね。武器をめぐる抗争もあったのかもしれないと。
ただし、物的証拠が見つかっていないのでなんとも言えないらしいです。
結局はまだ推論の域ですね。

ところで記紀やその延長上にある新撰姓氏録を重視しているQさんからすれば、津田左右吉もトンデモ系になってしまうのでしょうか。

_ Q ― 2009/08/16 12:13

園田さん

>ところで記紀やその延長上にある新撰姓氏録を重視しているQさんからすれば、
>津田左右吉もトンデモ系になってしまうのでしょうか。

トンデモ系という言い方は言い過ぎかもしれませんが、津田氏とか江波氏の説というのは、考古学的にも文献的にも証明されてない説が多くて、彼らの推論「これは、天皇家の嘘ぱっちに違いない」という強い偏見ぐらいでしか、この説を説明できないから、正直、冷ややかに見ています。津田氏、江波氏の説というのは、もう、歴史ミステリ作家が小説を書くのと大差がないように思います。

よって、文献を疑う心をもちながらも、一度は、その文献に書かれている通りに解釈してみて、それから、文献の真偽について、いろいろ推論してみるべきだと思います。

それで、私は、記紀、新撰姓氏録、風土記、延喜式、続日本紀、旧事本紀、海部氏系図、漢書、後漢書、魏書などの文献を殆どそのまま解釈していたら、自然と、ヤマト王朝の創世記の過程が見えてきたのです。これらの文献は、決して、明確な嘘はついてないです。ただ、皇室が触れられてほしくない箇所は、ばっさりとカットされているか、ぼやかして書いています。

_ Y-SONODA ― 2009/08/17 00:39

Qさんへ

>ただ、皇室が触れられてほしくない箇所は、ばっさりとカットされているか、ぼやかして書いています。

再三質問してすみません。
皇室が触れられてほしくない箇所とは、ズバリ何でしょうか?

_ えの ― 2009/08/17 01:03

日本の民話・伝承と宮崎駿監督作品
http://www.yk.rim.or.jp/~rst/rabo/miyazaki/minwa-densyou.html
「 また、伝説や昔話に登場する鬼・天狗・河童などが、時の為政者によって貶められた産鉄民であるという沢史生氏の説も援用している。「日本書紀」に登場するヤマタノオロチは土着産鉄民を表し、「桃太郎」の「鬼退治」は産鉄民侵略・制圧の隠喩であり、家来の「犬」「猿」は従来タタラ師の里での僭称だったと言う。山中で斧を振り回す「金太郎」も足柄山の製鉄民の伝承に由来し、「花咲爺」を幸福に導く「犬」は宝=タタラ(貴金属を示すタカラは、金産術であるタタラを語源とするという説もある)の在処を教えたもので、被差別山民の暮らしを語ったものだと説く。さらに柴田氏は、『もののけ姫』の主人公であるアシタカの出身である蝦夷の大和朝廷による侵略も、鉄の製法をめぐる争奪戦だったいう説を展開している。」

_ Q ― 2009/08/17 14:44

園田さん

皇室が隠したかったことは、天忍穂耳命~神武天皇~崇神天皇の間に集中していますね。このあたりの時代が核心部分です。神武天皇~崇神天皇の間の時代には、魏志倭人伝にもあった倭国大乱もあったと思われます。で、この隠したかった部分が明らかになると、ニニギ命の末裔である神武皇統は、ヤマト王朝の大倭王としての正統性が微妙に揺らぐんですよね。微妙にですよ。

ちなみに、天忍穂耳命以前、つまり、天照大神・スサノオのあたりは、本当に神話的な伝承だったのでしょう。天照大神とスサノオの誓約の結果、天忍穂耳命、天穂日命らが誕生したというふうに記紀には記述があります。性交したのではなく、誓約という宗教的な記述からです。これは、天照大神・スサノオと、天忍穂耳命の間に直接的な親子関係があるということではありません。おそらく、天照大神・スサノオというのは、天忍穂耳命が生存したであろう紀元前1世紀においても、すでに遠い昔の神話のような話であった可能性が高いです。記紀の編纂者たちは、皇室の先祖(天忍穂耳命)の正統性を高めるために、葛木高天と出雲の二つの神の両方から選ばれた存在と自分たちの家系を定義づけたのでしょう。

それにしても、ヤマト王朝(元々は葛木高天から発祥)にとって、大倭王(日本全土の大王)であるために、出雲という要素は重要ですよね。なぜなら、ヤマト王朝が大倭王になれたのは、出雲王室から覇権を譲渡されることによって成し遂げられたわけです。このことが、神武皇統にとっては、自らの正統性が微妙になってしまう要因になっています。

_ トンチンカン ― 2009/08/17 19:53

すみません。Qさんに質問です。この山についてどう思われますか?

恵那山
http://www.enasan.jp/enasan.html
もともとの名前は「胞山」と記され,伝説では天照大神が生まれたときの胞衣(えな=胎児を包む膜)をこの山に納めたのが始まりだと伝えられています。山頂には恵那神社の奥宮本社,麓には前宮本社が置かれ,その由緒は「日本書紀」にまで遡り,日本武尊が東征の帰途,この恵那神社を参拝したと記録されています。

http://www2.ocn.ne.jp/~ynhida/yamagatari/katari/enasan.htm
恵那山は、濃尾平野や飛騨の山々からどっしりとして見える山です。ふもと中津川市の恵那神社には、次のような伝説が伝わっています。
 それは、神代のころ、伊邪那岐(イザナギ)、伊邪那美(イザナミ)の大神から生まれた天照大神(アマテラスオオミカミ)の胞衣(エナ、へその緒)を洗い清めてこの地に納めたというものです。そのエナが山名の語源ですが、恵那山という山名になったのは、江戸時代中期以降であるともいいます。へその緒を切ったとされる鎌は、恵那神社の社宝となっています。山上には、伊邪那岐、伊邪那美の2神を祭った奥宮本社と、それを守る6つの社があります。その6つの社は、一言主大神(ヒトコトヌシオオカミ)、木花咲開姫大神(コノハナサクヤヒメオオカミ)、速玉男命(ハヤタマオノミコト)、天照大神・豊受姫大神(アマテラスオオミカミ・トヨウケヒメオオカミ)、天目一箇命(アメノマヒトツノミコト)、猿田彦大神(サルタヒコオオカミ)です。山頂付近のヒノキは、伊勢神宮の社材として21年ごとに奉納されていたこともありました。

_ T ― 2009/08/18 01:33

Qさんは天皇家のルーツをどうお考えなのでしょうか?

これまでのコメントを拝見していると、渡来系か先住民系か、縄文系か弥生系かの区分は考えておられないようですね。

葛木の高天原にルーツがあるというようにも伺えますが、ということは葛木族の出身? 
では葛木族とは何者? 

渡来系をお好みではないようなので先住していた一族、つまり縄文系なのでしょうか?

まさか本当に天から降臨されたとはお考えではないでしょう?

_ S ― 2009/08/18 02:34

Qさん

私の質問にお答えいただき有り難うございました。

ただ、お答えの中の、
>日本書紀などのヤマトトトヒモモソ媛命などに関する記載やその周辺系図などをよく読めば、その謎が見えてきます。

のお答えに、一応ご指摘のあたりを見てみましたが、私にはさっぱりわかりません。

>箸墓はヤマトトトヒモモソ媛命の墓とされています。
→何によってそうされているのでしょうか? 

箸墓は卑弥呼の墓ではないかという説が最近の考古学で有力になってきてるということのようですが、
それだからといってヤマトトトヒモモソ媛命=卑弥呼ということにはならないと思います。

箸墓はヤマトトトヒモモソ媛命の墓としたのが日本書紀なのかどうかわかりませんが、本来は卑弥呼の墓だったのをヤマト王朝が剽窃して孝霊天皇の娘ヤマトトトヒモモソ媛命の墓としたとも考えられるでしょう。

卑弥呼の時代、ヤマト王朝はまだ存在しなかったと考えるのが最も理解できます。
後のヤマト王朝になる一族の先祖は居たのでしょうが、貴方のお説によれば葛木高天に居たのでしょう。
ただ私は当時はまだ小部族に過ぎなかったのだと考えます。

こう考えるのが私にとっては一番納得できるのです。

_ Y-SONODA ― 2009/08/19 06:47

★えのさんへ

>民話・伝承・御伽噺を再構築して日本的民俗的なエンタテイメントに仕上げるという宮崎監督の試みは、グローバル・スタンダードの真逆であり、だからこそ世界の観客を魅了する独創性を獲得出来たのではないだろうか。

確かに宮崎さんはうまいですね。
どこからどこまでが真実なのかわからなくなってしまうけどねw

★Qさんへ

質問に答えていただきありがとうございました。
鍵を握るのはやはり出雲ということですね。
それなのになぜQさんは渡来に目を向けようとしないのか。
う~~~ん。さっぱりわからん。

★Tさんへ

>まさか本当に天から降臨されたとはお考えではないでしょう?

ま・・・ま・・・・まさか!

★Sさんへ

実際に出てきたものと記紀とを照らし合わせるのに一苦労。
結局何も特定できぬまま古代史ロマンは続くということになるのでしょう。
ロマンはいいのですが、熱くなってしまう人は苦手だな~w

_ Q ― 2009/08/19 11:23

Tさん、園田さん

>まさか本当に天から降臨されたとはお考えではないでしょう?

>ま・・・ま・・・・まさか!

だから...そんなこと言ってません。
高天原とは、葛木の高天のことです。
現在の奈良県御所市高天のあたりのことで、天忍穂耳命(神武天皇の4代前)はこのあたりの豪族だと思います。
こう何度言っても、皆さん、ぜんぜん、反応がないというか...

で、出雲国譲りとは、中国地方(首都は出雲意宇)VS近畿地方(首都は葛木高天)の戦いで、中国地方が近畿地方に降伏した事件であり、その後、近畿王朝が各地の将軍を派遣し、その中で九州南部に派遣されたのが、ニニギ命(神武天皇の3代前)なのです。

ちなみに、まさか、園田さんらは、出雲国譲りって、朝鮮半島から渡来した勢力が、出雲を降伏させた事件というふうに思っているのでは?

_ T ― 2009/08/19 22:58

Qさん

葛木の高天に居た豪族がヤマト王朝となったということですが、
この豪族は元から葛木に居た一族で渡来系ではないということですね?

渡来系でないということは、先住していた人々(縄文系)ということになるでしょう?
日本列島に先住していた人々は、蝦夷、土蜘蛛、熊襲などと呼ばれ、既に平安期には差別の対象になっていましたよね。

天皇家の始祖であるヤマト王朝が、もし先住していた系統ならおかしなことになりませんか? 
だから敢えて天から降りてきたのですか?とお尋ねしたのです。

Qさんが大事に思っておられる高天彦神社ですが、明治天皇も親拝されたにしては現在無人の神社というのも解せないのです。
さらに境内には土蜘蛛塚もあるということですし、周辺には土蜘蛛の窟もあるようですが、このことはどう解釈すればよいのでしょうか?

さらに高天彦神社の掲示板に、御祭神は葛城族の祖神である高皇産霊尊と書いてありますが、Qさんは葛城と葛木は違うと仰ってます。

では、葛木のほうがヤマト王朝、ひいては天皇家にとってより重要なはずなのに、明治天皇は何故高天彦神社に親拝されたのでしょう?(親拝は事実なのですか?)

葛城族の祖神を祀る高天彦神社はありますが、葛木(族)の祖神を祀る神社などはあるのでしょうか?

_ Q ― 2009/08/19 23:41

トンチンカンさん

>恵那山

そんな山は知りませんでした...う~ん。ちょっと、私も分かりません。どうなんでしょうか...こういうの、結構、後世に伝承が作られる場合もありますし...


Tさん

>この豪族は元から葛木に居た一族で渡来系ではないということですね?

人類はアフリカから発祥しました。そういう意味では、日本人全体が渡来系だと思いますが...そういうときりがない。
まあ、少なくとも、古事記には、無から現れた最初の場所が、高天原ですから、皇室・尾張氏の祖先の天忍穂耳命は、葛木の高天に本拠を構えた土着豪族で、そこから、ヤマト王朝は発祥したのでしょう。

高天彦神社の社伝は、葛木と葛城がごちゃごちゃになっているのかも..その社伝の看板自体が混乱しているのかもしれません。日本書紀によると、葛城という地名は、神武東征のおりに名づけられた地名だそうです。でも、高皇産霊尊が登場しだすのは、神武東征よりも、ずっと前からですし...一応、カツラギ氏には、複数の系統があって、一つは高皇産霊尊の系統(大伴氏などと同族、ヤマト王朝内では譜代豪族)、もう一つは、武内宿禰の子の代に創設された系統(紀氏や蘇我氏とほぼ同族、ヤマト王朝内では親藩豪族)があることは確か。

で、高皇産霊尊を祖神とする一族で有名なのは、大伴氏、鴨氏などが有名で、後々の世まで栄えましたね。
ちなみに、天火明命、ニニギ命の母方の実家が、この高皇産霊尊を祖神とする一族です。
よって、徳川幕府にたとえるのなら、徳川家康の母親の実家である水野家のような位置に、大伴氏などがいたと思われます。

_ Q ― 2009/08/20 00:08

Tさん

で、渡来系、渡来系といいますが、人類はアフリカ発祥ですから、全部が渡来系です。

で、おそらく、Tさんが言っている渡来系というのは、水稲農業を伝えたかもしれない、顔がうすめの人種のことを言っているのだと思いますが、
日本語の系譜は縄文時代の頃の系譜を受け継いでいると思われ(だからこそ、日本語は孤立言語とされている)、弥生人も縄文人の末裔に過ぎない。ただ、弥生人というのは、縄文人と新たに日本にやってきた人種の混血型だと思われます。

で、最近の考古学では、日本に水稲農耕業が来たのは、紀元前10世紀頃であり、陸稲農業などは紀元前40世紀頃には始まっていたという説が出てきます。
つまり、古アジア人種と新アジア人種の混血は、かなり古い時代から徐々に緩やかに起こったことであり、だからこそ、あらたに水稲農業を起こった人たちの言語ではなく、それよりも、ずっと前の陸稲農業を行っていた人たちの言語が、そのまま日本語の系譜になっているのでしょう。

で、天忍穂耳命の活躍した時期は、紀元前1世紀と踏んでいます。つまり、最近の考古学からみて、水稲農業が日本で開始されて、実に1000年くらい経過した時代に、高天原(葛木高天)で、天忍穂耳命(神武天皇の4代前)が活躍していたふんでおり、あんまり縄文とか弥生とか、そういうのは無関係だと思います。

_ T ― 2009/08/20 02:18

Qさん

葛木御歳神社公式ホームページというのがあります。
http://www.mitoshijinja.com/
その中に、
「葛城・金剛山の東、飛鳥より古い時代に栄えた地。
葛城氏、鴨氏の本拠地でもあり、
渡来人が多く住み豊かに栄えたいにしえの地。」

とありますが、これもごっちゃにしてると仰るのでしょうか?

高天彦神社と併せて、いずれも神社自身が公式に表明しているものです。
「ごちゃごちゃになっている」と仰るのでしたら、根拠を示して正しくはこうだと言っていただかないと、私は神社の公式表明が正しいと考えます。

_ Q ― 2009/08/20 06:08

Tさん

カツラギ氏には、大きくわけて二つの系統があります。
父系でみるのなら
一つは、高皇産霊尊の後胤であり、大伴氏などと同系統のやつ。これは、ニニギ命・天火明命の母方の系統ですから、皇室からみたら外戚の系譜です。
もう一つは、武内宿禰の子の代に始まった系統であり、つまり、皇室から分かれた系統。
で、後世(西暦5世紀ぐらい)に栄えたのは、皇別氏族である後者のほう。
両者は姻戚関係を重ねていたようで、実質的に同族化していったようで、その場合、皇別氏族のほうに吸収合併された可能性がある。


これです。これらのページを参考にして、一応、自分の考えを出しました。
あくまでも参考で、全部を参考にしたわけではありません。

http://74.125.153.132/search?q=cache:gEFnnxg6kzEJ:www2.plala.or.jp/cygnus/st5.htm+%E8%91%9B%E6%9C%A8%E3%80%80%E8%91%9B%E5%9F%8E%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%84&cd=3&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

http://wiki.freeml.com/%E8%91%9B%E5%9F%8E%E5%9B%BD

_ Y-SONODA ― 2009/08/20 08:08

Qさん&Tさんへ

徐福はどうしまひょ。
Qさんからすれば、これもトンデモの勘違い行き?

_ トンチンカン ― 2009/08/20 08:17

Qさんへ

私は尾張の方に疎かったので質問させていただきました。コメントありがとうございます。

_ T ― 2009/08/20 12:26

Qさん

参考にされたページは私も見ています。
お答えは葛木と葛城は別のものという貴方の説の説明にはなってないようですが・・・

下記のページには、「葛木山に古くから住んでいた土 蜘蛛という人たちが、激しく抵抗したので、大変苦しめられました。ようやく、彼らを皆殺しにして国造(くにつくり)になったのが葛城氏の祖先なのです」という説が引用されています。
http://otd10.jbbs.livedoor.jp/1000013618/bbs_reply?reply=532

これによると葛木に古くから居た土蜘蛛を滅ぼした後から来たほうが葛城族を名乗ったと、つまり入れ替わったということですね。

貴方の説では古くから葛木に居た人たちがヤマト王朝の始祖になったということですが、こちらの説とは異なりますね。
高天彦神社の土蜘蛛塚の存在などを考慮すると、私はこの入れ替わり説のほうを支持します。

渡来系か否かに何故拘るかといいますと、土着豪族がヤマト王朝の始祖になったのであれば、平安期以降あきらかに差別の対象とされたのが土着系(先住系・縄文系)の人々であったことと矛盾するからです。

_ Q ― 2009/08/20 12:45

園田さん

まあ、徐福伝説って、結構、後世に作られたものが多かったりします。

徐福が日本の支配階層になったなんてことはないでしょう。もし、そうならば、紀元前3世紀には、日本人は漢字を書くようになっていたわけですし、日本語も孤立言語じゃなく、中国語・チベット語と同じ系譜の言語だった可能性があるでしょう。


Tさん

土蜘蛛が縄文系って決め付けが間違っていると思います。

あと、Tさんのソースに、ニギハヤヒを国津系としていますが、新撰姓氏録では、ニギハヤヒは天津系となっています。ナガスネヒコも天津系でしょう。

また、ものすごい勘違いですが、Tさんは、国津系=縄文系、天津系=渡来系と解釈されているようですが、それは間違いでしょう。

国津系も、天津系も、弥生系(渡来系ではない。縄文と渡来系のブレンド)でしょう。

最近の考古学では、弥生時代(水稲農業)の開始時期が遅くとも紀元前10世紀とされだしており、神武天皇東征があったであろう紀元1世紀、出雲国譲りがあったであろう紀元前1世紀は、弥生時代が開始されてから1000年くらい経過した話だと思います。よって、縄文も渡来系も関係ないでしょう。

_ 傍観者 ― 2009/08/20 16:06

どう見てもQさんという方こそが大きな勘違いをされているのではないでしょうか。他の方はみんな古代史なんて今なおはっきりしないということを前提に多少ジョークを交えてお話されている。
ところがQさんだけは自分が正しいという立場で自説を主張しておられる。はっきり申し上げて「俺が俺が」に見えます。
あくまでも自説をご披露したいのであれば、Qさんはご自身のHPやブログなどを立ち上げて主張すればいいのです。それほどまでに自信がおありなら、本名を出して主張すればいいのです。
Qさん、いかがでしょうか?

_ トンチンカン ― 2009/08/20 17:30

私は、知らなかった事や考えてもみなかった事が議論されているので勉強になって助かっています。

新唐書を書いた欧陽修は、以下のように思っていたようです。(ちょっと長いですすみません)新唐書は客観性を欠くという指摘があるそうですが。

日本刀歌                歐陽脩

昆夷は道遠くして 復た通ぜず
世々 切玉を傳うるも 誰か能く窮めん
寶刀 近く日本國に出で
越賈 之を滄海の東に得たり
魚皮もて裝貼す 香木の鞘
黄白 饟雜す 鍮と銅と
百金もて傳へ入る 好事の手
佩服すれば 以って妖凶を禳ふ可し

傳え聞く 其の國は大島に居り
土壤 沃饒にして 風俗好しと
其の先の徐福 秦の民を詐り
藥を採って淹留し 丱童老ゆ
百工 五種 之と與に居り
今に至って 器玩 皆精巧なり
前朝に貢獻して 屢々往來し
士人は往往にして詞藻に工なり

徐福の行く時 書 未だ焚かざれば
逸書百篇 今尚存す
令嚴しくして 中國に傳ふるを許さざれば
世を舉げて 人の古文を識るもの無し
先王の大典は 夷貊に藏れ
蒼波 浩蕩として 津を通づる無し
人をして感激せしめて 坐に涕に流をさしむ
鏽澀たる短刀も 何ぞ 云いうに足らんや

欧陽修
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%90%E9%99%BD%E8%84%A9

少し話はずれますが、この逸書百篇は蝌蚪文字という文字で書かれていたのではないかという事です。おそらく下の話が元にされているのでしょう。

孔安国
魯の人。やはり魯の人・ 申公 について『魯詩』、 伏生 について『 尚書 』を学ぶ。漢の 武帝 の時に諫議大夫に任ぜられ、博士となり、臨淮の太守へと進む。 景帝時代の末年に、魯の共王が宮殿拡張のために孔子の宅をこわし、壁の中から『尚書』『 礼記 』『 論語 』『 孝経 』の古いテキスト数百編を発見。それらは蝌蚪文字で当時読める者がいなかったのを、安国は今文の尚書より堯典・禹貢・洪範・微子など16篇多いことを知る。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AE%89%E5%9B%BD
http://www8.plala.or.jp/yuuboku/kiso/kiso/kiso-right.htm

_ ★Qさんへの公開質問(Y-SONODA) ― 2009/08/20 20:11

「表」で議論するレベルでもないと思うのでコメント欄で行います。

確かに今や縄文・弥生の定義自体があいまい。
また、陸稲、水稲に関する最近の学説も承知しています。
この件は「弥生時代 - Wikipedia」にも掲載されていますから、少し調べれば誰でもわかる。

こうしたことを承知の上で、8月16日付『日本人はどこから来たのか』にて、国立科学博物館を中心とする研究班の「弥生時代の開始期が従来考えられていたよりも500年も遡るかもしれない」という見方を紹介しました。

さて、Qさんはこう主張していますね。

>最近の考古学では、遅くとも、陸稲は6000年前、水稲は3000年前には始まっていたことになり、いずれにしても、天忍穂耳命は、陸稲が始まってから4000年後、水稲が始まって1000年後の人物なわけです。

>天忍穂耳命の活躍した時期は、紀元前1世紀と踏んでいます。つまり、最近の考古学からみて、水稲農業が日本で開始されて、実に1000年くらい経過した時代に、高天原(葛木高天)で、天忍穂耳命(神武天皇の4代前)が活躍していたふんでおり、あんまり縄文とか弥生とか、そういうのは無関係だと思います。

>最近の考古学では、弥生時代(水稲農業)の開始時期が遅くとも紀元前10世紀とされだしており、神武天皇東征があったであろう紀元1世紀、出雲国譲りがあったであろう紀元前1世紀は、弥生時代が開始されてから1000年くらい経過した話だと思います。よって、縄文も渡来系も関係ないでしょう。

それではここで質問です。

1、「水稲が始まって1000年後の人物」及び「水稲農業が日本で開始されて、実に1000年くらい経過した時代」及び「弥生時代が開始されてから1000年くらい経過した話」という点から、渡来人は水稲開始時期に集中していたとお考えだと判断します。その説を唱えている学者を教えてください。私自身、そんな説は聞いたことがありません。

2、そのような学者が存在せず、あくまでもQさんの自説であれば、「鉄器」との関係を踏まえた上で今一度説明をお願いいたします。

上記、2点について、何卒よろしくお願い申し上げます。

_ Q ― 2009/08/20 21:54

園田さん

>1、「水稲が始まって1000年後の人物」及び「水稲農業が日本で開始されて、実に1000年くらい経過した時代」及び「弥生時代が開始されてから1000年くらい経過した話」という点から、渡来人は水稲開始時期に集中していたとお考えだと判断します。


いいえ。私は、渡来人は水稲開始時期に集中していたとは考えません。ただ、水稲開始時期が早いとなると、それだけ、水稲開始時期以前の日本列島にも時間的に余裕が出来るということです。つまり、長時間かけて、縄文時代から弥生時代へ徐々に変化していったということです。

しかも、最近の考古学では、縄文時代にも既に陸稲などの農業が行われていたことが分かってきています。全くの狩猟生活から水稲農業へ移行するのと、陸稲農業から水稲農業も導入するのとでは、後者のほうが縄文社会側が変化に対応する余裕が出来るでしょう。つまり、水稲開始以前の人口もそこそこあったことになります。

おそらく、園田さんの学生時代は、水稲開始時期を紀元前3世紀ぐらいとしていた説が有力だったと思います。その場合、邪馬台国の卑弥呼がいた時代というのは、水稲開始から約600年後の世界だったと思います。

しかし、最近の考古学の研究では、紀元前10世紀ってのが出てきています。この場合、邪馬台国の卑弥呼がいた時代ってのは、水稲開始時期から約1300年後の世界ってなりますよね。

これを以前の学説で考えてみると、凄いことですよね。たとえば、以前の学説である紀元前3世紀に水稲が開始されたと考えて、その1300年後ってどういう時代だったか? なんと平安時代、源氏物語が作られた時代にあたる。それが、卑弥呼の時代までずれてくるんですよ。

実際に、魏志倭人伝に書かれている西暦3世紀の倭国の戸数ってのは、倭国がかなりの人口を誇る大国だったというふうに記載されています。以前の学説である紀元前3世紀に農耕が開始されたとなると、西暦3世紀の時点で、こんなに人口があるはずがないって考えから、魏志倭人伝の戸数に関する記述は誇張しすぎているという意見がありましたが、最近の学説からだと、魏志倭人伝の記述は、必ずしも誇張ではなかったことになる。

よって、卑弥呼がいた時代や、それより少し前の記紀の神話の時代ってのは、既に現代の日本人の原型(縄文+渡来=弥生)が出来上がって、だいぶん時間が経過していた時代になる。しかも、徐々に融合していったから、基本的に社会や言語の基本は縄文の系統を残している。だからこそ、比較言語学では、日本語は孤立言語だし、魏志倭人伝でも、倭人は半島・満州などの諸族とは、別系統のように書かれているわけです。

_ ★Qさんへの助言(Y-SONODA) ― 2009/08/20 23:13

ありゃま。こりゃ大変(爆)
もう一度この記事を読み直して下さい。

日本人はどこから来たのか
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2009/08/16/4519581

500年遡る説を紹介した本人に対して学生時代云々を持ち出す意味がさっぱりわかりません。

どうやらあなたは相手構わず批判するのは得意のようですが、批判されることには慣れていないようですね。
傍観者さんも書いてくださっていますが、自分のHPやブログで大いに主張し、少し揉まれてみてはいかがでしょうか。

_ Y-SONODA ― 2009/08/21 08:20

★Tさんへ

>渡来系か否かに何故拘るかといいますと、土着豪族がヤマト王朝の始祖になったのであれば、平安期以降あきらかに差別の対象とされたのが土着系(先住系・縄文系)の人々であったことと矛盾

この点は確かに一番気になるポイントですよね。
実際にはもっと長かった弥生期に渡来系との混血が進んで現在の日本人になる。
とはいえ、混血の度合いも地域差がある。
南九州や東北以北の比較的縄文が濃そうな人たちがいじめられた感じは否めない。
それと鉄器をもたらした人たちのことも気になります。
彼らが当時の権力者たちと結びついていた可能性も無視できないからです。
いずれも現時点ではまだ推論に過ぎないですが・・・。

★傍観者さんへ

どうもご意見ありがとうございました。

★トンチンカンさんへ

日本にはまだまだ謎が多いですね。

★Qさんへ

多少柔軟性に欠けると思っていたので、年配の方か若い方ではないかと思っていたのですが、どうやら若い方なのかも。ひょっとしたら学生さんかな?
Qさん説もそれなりにオリジナリティーがあって面白いのですが、もう少し謙虚な姿勢があってもいいと思います。
あなたが正しいと信じていることも実証しろといわれたら困るわけでしょ。
それなのにあなたはこれまでいろんな人を批判してきた(本居宣長も含めてw)。
その中にはこのブログに来てくださっていたある方も含まれていました。
この方は伊勢神宮に近い人。私はもう冷や冷や。
あなたが若いとなるとその方も許してくれるでしょう。

_ Q ― 2009/08/25 06:59

>その中にはこのブログに来てくださっていたある方も含まれていました。
>この方は伊勢神宮に近い人。私はもう冷や冷や。

どういう方ですか?名前まで知りたいとは思いませんが、せめて、どのような歴史解釈をされている方なのか、知りたいです。

_ Y-SONODA ― 2009/08/25 08:04

Qさんへ

そのうちご本人が登場されると思いますよ。

_ たたら ― 2009/09/10 20:25

スサノオがアマテラスに天叢雲剣を渡したのは、出雲が大和へ鉄器を供給したという、考古学的な見地と対応するのではと思います。しかし出雲神にはスサノオとオオクニヌシという2人の大物の神様がいるのかというのは、弥生後期の出雲の状況を見ればわかります。島根県安来市を中心とする東部出雲王朝(スサノオ)と島根県出雲市を中心とする西部出雲王朝(オオクニヌシ)があったのです。東部出雲王朝は早期に発達し、長きに渡って繁栄しヤマトへの鉄器供給を行った。西部出雲王朝は東部の分家として発達したが、東部よりも発展しやがて、北陸あたりまでの日本海沿岸に渡る大国家を作りました。それで大国主といわれます。しかし、それより少し遅れて大和が発展し、西部王朝は短命に終わり、これが国譲りに対応します。一方、大和から見ても東部王朝は本宗家だったので、スサノオとアマテラスは兄弟と言う設定になっていますが、この事情のため滅ぼさなかったと考えられ、この子孫が蘇我氏のような大豪族になって行くと思われます。

_ Y-SONODA ― 2009/09/12 10:17

たたらさんへ

いろんな説があるんですね~。

_ えの ― 2009/09/12 10:28

>スサノオがアマテラスに天叢雲剣を渡したのは、出雲が大和へ鉄器を供給したという、考古学的な見地と対応するのではと思います。

熱田神宮の「草薙剣」(=「天叢雲剣」)は銅剣で大陸又は朝鮮半島からの舶載品のようです。
古代の舶載刀剣鋼材 (弥生~古墳期)
http://www.k3.dion.ne.jp/~j-gunto/gunto_132.htm

古田武彦「古代出雲の再発見」
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/izumtetu/izumtetu.html

_ Q ― 2009/09/12 11:50

たたら さん

>一方、大和から見ても東部王朝は本宗家だったので、
>スサノオとアマテラスは兄弟と言う設定になっていますが、
>この事情のため滅ぼさなかったと考えられ、
>この子孫が蘇我氏のような大豪族になって行くと思われます。

蘇我氏のことを、出雲出身といったり、あるいは、渡来氏族といったりする人が多くいるんですが...蘇我氏が、出雲出身であったり、あるいは、渡来氏族だなんて記述は、文献上には、残されていません。むろん、記紀、新撰姓氏録に書いてあることが全て正しいとは言いませんが...蘇我氏が、出雲出身であったり、渡来氏族であったりという記述は、書かれてさえいないのです。

蘇我氏は、記録上は、孝元天皇の孫である武内宿禰の後裔であるとなっています。この武内宿禰は、三韓征伐の時代に活躍した皇別豪族で、葛城氏、紀氏、蘇我氏、平群氏などが、その子孫です。この中でも、本流に当たるのが、葛城氏でしたが、雄略天皇の時代に皇室に逆らって滅ぼされ、代わりに分家の蘇我氏が台頭することになったと、記録上は残っています。この一族は、半島に多くの利権を保有していた豪族として有名です。

_ Y-SONODA ― 2009/09/13 00:14

えのさん&Qさんへ

やっぱりいろんな説がありますね~。

_ (未記入) ― 2010/05/30 15:45

ところで、ヤマトトトヒモモソ姫の母親ハイドロが
淡路島出身なのは、なぜ話題にならないのでしょう?
淡道宮とか、プレ大和王権(欠史八代)と淡路の関係は記されているのに、みんなスルーですよね。

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_ 米流時評 - 2009/08/15 10:36


   ||| タリバン戦線のエンドゲーム |||
 テロ戦争8年目の潮目 パキスタンのタリバン拠点へ米軍のミサイル攻撃開始
 
ここ数日で、アフガンとパキスタン国境地帯のタリバンの拠点に対して
米軍・パキスタン政府軍・アフガン政府軍の総攻撃が展開している。
7月の対タリバン戦線の戦死者数が、
米軍もNATO軍も、テロ戦争始まって以来の記録となってしまった。
もちろんそれ以前から「アフガン・サージ」(増兵)は始まっていた。

 本来のテロ戦争の目的から外れて、石油利権目当てのイラクへ侵攻した米軍。
 そのブッシュ政権の誤った指針を、本来のタリバンの拠点である
 ア...