高坂正尭と若泉敬の現実政治 ― 2009/06/22 02:32

<引用開始>
発信箱:幻の「悪人」論=伊藤智永(外信部)
http://mainichi.jp/select/opinion/hasshinbako/news/20090620k0000m070158000c.html
高坂正尭執筆「佐藤栄作論--政治の世界における悪人の効用」。日の目を見なかったこんな長期連載のプランが1970年代にあったと聞いて、思わずうなった。
休刊した月刊誌「諸君!」の名編集者だった東真史氏が企画。佐藤の自民党総裁4選で、まんまと一杯食わされた前尾繁三郎元衆院議長に取材も始めていたが、立ち消えになったという。惜しい。
今でこそ戦後の偉人とされる吉田茂も、60年安保のころまでは、世論に耳を傾けない対米追従のワンマンとしてすこぶる不人気だった。評価を一変させたのが、高坂氏の名著「宰相吉田茂」だ。
佐藤は今も往年の吉田以上に人気がない。自由党幹事長の時、疑獄事件での逮捕を指揮権発動で免れ、沖縄返還は総裁選でライバルへの対抗上公約したのがきっかけだった。中国が核実験を行うと米国に日本の核武装の可能性をちらつかせつつ、国会では非核三原則を表明。しかも沖縄への「核持ち込み」密約を結び、猛烈な集票工作でノーベル平和賞まで勝ち取った。
「保守政権にすり寄るタカ派御用学者」との陰口にもめげず、佐藤ブレーンであり続けた高坂氏なら、この「悪人」ぶりを現実政治に不可避な「効用」として、どう得心させてくれただろうか。
高坂氏は、佐藤を「政治的悪人」と好感する半面、例えば田中角栄は全く評価しなかった。政治の「悪」は、庶民感覚や道徳倫理の「悪」とは別モノというわけだ。
一体、政治指導者の大衆人気ほど当てにならない物差しもないだろう。最近は「嫌われ者」で名高い明治の元勲・山県有朋の再評価も始まっている。マニフェストに「悪」の数値は載っていない。
<引用終了>
高坂正尭から吉田茂、佐藤栄作という現実政治の系譜をたどるセンスはお見事。
しかし、山県有朋の名前を出すのはいかがなものかと。
山県再評価は重要だが、高坂が取り上げる対象とは思えない。
佐藤が65年の初訪米で日本核武装の可能性をちらつかせて米国の「核の傘」の保障を求めたのは事実。
64年10月に中国の原爆実験が成功。
64年12月29日のライシャワー駐日米大使との会談で「仏大使は、中共(中華人民共和国)が核武装を行っているのだから、日本も核武装すべきだと言ったので、日本はそのような問題でフランスの指図は受けないと言っておいた」と思わせぶりに語る。
また、訪米中の1月13日に行われたマクナマラ国防長官との会談でも、「日本は技術的にはもちろん核爆弾を作れないことはないが、ドゴールのような考え方は採らない」と語り、ここでもまたフランスを引き合いに出した。
さらに中国と戦争になった場合には「米国が直ちに核による報復を行うことを期待している」と踏み込み、先制使用も含めた核の即時報復まで要請。
沖縄返還交渉において佐藤の秘密個人特使として核持ち込み密約にかかわったのは若泉敬。
若泉の交渉相手はヘンリー・キッシンジャー(当時国家安全保障問題担当大統領補佐官)。
キッシンジャーこそが一貫して日本の核武装に懸念を抱いてきた人物。
この点でキッシンジャーは今でも使える存在。
高坂や若泉が生きていたら、「今こそ世界の中心で日本核武装を叫ぼう」と呼びかけていたかもしれない。
日本人の多くは「核の傘」も見て見ぬふり。
その上で、偽善者たちはわけのわからない観念的平和論を振りかざす。
そんな人たちに仏僧を伴って沖縄へ陳謝の旅に出た若泉のことを伝えておきたい。
<新渡戸につながる二つの若泉敬関連記事引用>
沖縄返還で対米秘密交渉 若泉敬氏の遺書 日本の精神的退廃に警告 /佐伯浩明
1996/08/09産経新聞夕刊
昭和四十四年の沖縄返還交渉で佐藤栄作首相の密使として対米秘密交渉にあたり、交渉の成功を側面から導いた若泉敬元京都産業大学教授が先月二十七日、すい臓がんのために福井県鯖江市の自宅で死去した。六十六歳だった。
アトランタ五輪報道の陰に隠れて若泉氏の訃報(ふほう)記事はささやかなものだったが、私はここで、平成六年五月に若泉氏が出版した、秘密交渉の経過をつづった著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文芸春秋)の跋文(奥書き)と、このほど入手した英語版用の序文に書かれたメッセージについて書いてみたい。死を覚悟した氏が祖国の道義心の再興を願って書いた真剣なる提言が込められているからだ。
▽…▽…▽
若泉氏は、昭和五年福井県今立町の生まれ。維新の志士、橋本左内を尊敬し、東大法学部を卒業すると防衛研修所の前身の保安庁保安研修所に入った。ロンドン大学大学院に留学、米ジョンズホプキンス大学高等国際問題研究所、米ウッドロー・ウィルソン国際学術研究所などで安全保障研究を重ねてきた。氏は敗戦前の福井師範の学生時代、米軍のB29の爆撃で福井市が焦土と化すのを見て「世界平和の建設を目指す」と誓った。
ただ、歴史の複雑さを知る若泉氏は観念的平和論を排した。それは同氏が「常に考えられないことと考えたくないことをもあえて考え抜く知的勇気と思考の柔軟性を失ってはならない」と、自著に書いたことからもうかがえる。
さてその提言だが、一つは日本の精神的退廃に対する鋭い警告である。若泉氏が自己の訃報記事に跋文のその一節を添えて内外報道陣に送るよう、生前、指示していたところに訴えの切なることが読み取れる。《敗戦後半世紀間の日本は「戦後復興」の名の下にひたすら物質金銭万能主義に走り、その結果、変わることなき鎖国心理の中でいわば“愚者の楽園”と化し、精神的、道義的、文化的に“根無し草”に堕してしまったのではないだろうか》
オウム事件。ヘアヌードとセックス記事のはんらん。一国平和主義。エゴイズムの横行-若泉氏は「日本は腐っている」とまで述べ前途を憂慮し、国際連盟事務次長を務めた新渡戸稲造の著書『武士道』を行動指針として、この精神的荒廃を救うよう提唱している。
『武士道』。《そこには、衣食足って礼節を知り、義、勇、仁、誠、忠、名誉、克己といった普遍的な徳目が時空を超えて静かな輝きを放ち続けている…その不滅の光りの中に、戦陣に散り戦火に倒れた尊い犠牲者たちが、同胞に希って止まない「再独立の完成」と「自由自尊の顕現」を観るのである》(跋文より)
▽…▽…▽
二つ目のメッセージは、日米同盟関係の再検討と再定義だった。
《敗戦と占領以来米国軍隊がそのまま居座る形で、今日までいわば惰性で維持されてきた日米安保条約を中核とする日米友好協力関係を、国際社会の現状と展望のなかで徹底的に再検討し、長期的かつ基本的な両国それぞれの利益と理念に基づいて再定義することは不可避であり、双方にとって望ましくかつ有意義なことであろう。…その作業の大前提として私はまず日本人が毅然とした自主独立の精神を以て日本の理念と国家利益を普遍的な言葉と気概をもって米国はもとより、アジアと全世界に提示することから始めなければならないと信じている》(英語版の序文より)
歴史家のトインビー氏と対話したこともある若泉氏は三つ目に、飢餓のまん延、貧富の拡大、環境汚染、難民の激増、テロリズム、麻薬-と宇宙船地球号が抱えた問題に及び、「英語版の序文」では宇宙船地球号を構築する哲学と原理の構築と、戦争放棄に向けた世界の連帯行動を訴えた。
福井師範学校の同期生で同氏の最期を看取った斉藤孝斉藤病院院長と、若泉氏の遺言執行者代表者の田宮甫弁護士は「若泉先生はすい臓がんで余命が少ないことを知り、この跋文を書き、さらに今年三月、日本最西端の沖縄・与邦国島で残る命を燃やして英語版の序文を遺書として書きあげられた」という。若泉氏の絶命はその英語版出版の確認書を田宮氏らと交わしたまさにその当日だった。
沖縄返還の秘密交渉を通し「緊急事の核兵器の再持ち込みについての合意議事録」の作成に携わった若泉氏はその仕事の禁忌性ゆえに、沖縄復帰後、鯖江市での逼塞の生活を貫いた。若泉氏の思索は最期には宗教的高みにまで達した感を受けるが、この命をかけた提言に答えることは後に続く者の責務だと考える。
沖縄返還交渉時の秘話。
トインビー博士の歴史観に学ぶ。
國弘正雄
http://www.nagano-cci.or.jp/tayori/642/ts_642.html
― 國弘さんは大歴史家トインビー博士と親交がございましたね。トインビーさんはキリスト教国でありながら東洋思想を尊重し、造詣も大変深かったですね。
國弘 名著『歴史の研究』の翻訳刊行をとりまとめた電力の鬼・松永安左ヱ門さんとトインビーさんの対話を通訳したことがあります。その時のテーマは何か。鎌倉仏教なんです。トインビー氏はハイヤー・レリジョン(高等宗教)に熱心でした。とりわけ鎌倉仏教に。私も関心がありましたから、浄土教、禅についてかなりしゃべったんですよ。そうしたらね、忘れないんですが、トインビーさんは「イエース」「イエース」とじっと聞いてくださった。英語圏では人の話を聞くとき、「イエス」なんて言いません。トインビーさんだけは例外でした。それから、それで、どうして……と話し相手を誘う。
― トインビーさんはどんなメッセージを? 膨大でしょうが、例えばエピソードは何かございますか?
國弘 沖縄返還時、佐藤栄作政権の「密使」役を務めた若泉敬さん(故人、元京都産業大学教授)を思い出します。右翼、政治ゴロ、ナショナリスト……そんなレッテルを貼られる面もあった人物です。彼は佐藤栄作、僕は三木武夫。言ってみればタカ派とハト派。もうそこで対立しているんですが、同じ昭和五年生まれ。価値観が全然逆のようなんですが、気が合うところがあってね。最後に彼は沖縄へ行くんです。沖縄県民への陳謝の旅でした。有事の際の核導入という密約を押しつけてしまったという贖罪、それが最後の旅でした。仏僧を伴って。できないことです。帰ってきて、パッと死んじゃった。あの人の中にあるひたむきなもの、真摯なものには心惹かれました。その精神性は、トインビーさんのおかげだと僕は思っているの。
― それは、どんなことですか?
國弘 若泉さんとトインビーさんが毎日新聞で対談をするわけです。その中で、例えば「日本は憲法九条を絶対捨ててはいけません」とトインビーさんが言う。「おそらく捨てたくなるでしょう、誰もついてはこないということで、孤立した思いを抱くでしょう。しかしこの九条だけは絶対将来を見据えている」ということを切々と若泉さんに説くのです。僕の勝手な推測ですが、あのとき若泉敬は衝撃を受けたのだと思う。平和主義、憲法九条……今では時代遅れと思われることが、じつは長い歴史の物差しから見たら、一番先頭を行っている、と若泉さんがきっとわかったのでしょう。
― トインビーさんは東洋思想をとても重んじていましたね。
國弘 キリスト教圏に生まれたことはハンディだったとまで記述されています。伊勢神宮に伴ったとき、古神道への深い畏敬の念を示しました。和歌山の海岸で魚介類の養殖場を見たとき、こういう面で日本は世界に貢献して欲しい、と書いてますよ。まさに冒頭の小林翁の「赤十字国家」論と通じるじゃないですか。
<画像書籍>
『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』若泉敬
http://www.amazon.co.jp/%E4%BB%96%E7%AD%96%E3%83%8A%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%B2%E4%BF%A1%E3%82%BC%E3%83%A0%E3%83%88%E6%AC%B2%E3%82%B9-%E8%8B%A5%E6%B3%89-%E6%95%AC/dp/416348650X/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1245598366&sr=1-1
<関連記事>
今こそ世界の中心で日本核武装を叫ぼう
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2009/06/01/4335426
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